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憲法について
2017 / 05 / 28 ( Sun ) 17:52:53
河北潟の一昔前の聞き書きは、止まっています。
しばらく、憲法に関することをまとめていこうと思っています。
現在の日本国憲法が守られることを願って。

理想的なかたち-「三権分立」 提唱者 モンテスキュー
モンテスキューは、国家権力を、1)立法権、2)執行権、3)裁判権に区別した。彼は一人の人間、同一の役職団体が全ての権力を行使すれば自由は存在しない、すべては失われると述べている。モンテスキューの主張で重要な点は、立法権について「阻止する機能」が組み込まれていること、議会の決定事項について執行権を有する君主が拒否権をもつべきであること、人民と貴族と君主の三者が一致してはじめて国は動けること。

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潟縁の水路に残るアサザ
2012 / 11 / 07 ( Wed ) 18:26:08
20110803asazaHP.jpg

津幡の潟縁の水路に自生するアサザです。
10数年前はこの水路でアサザがみられる場所は限られていましたが、最近は水路の広域に群落がひろがっています。
一時期、イネ科の外来植物チクゴスズメノヒエが、水面を覆い、アサザの生育が危ぶまれました。
しかしその後、河北潟湖沼研究所の環境省いきづく湖沼ふれあいモデル事業において、チクゴスズメノヒエを丁寧に取り除く活動が展開されました。
その後、外来植物除去活動は、農政局や土地改良区さん生産組合さんNPOなどが参加する河北潟外来対応方策検討会や、河北潟の水辺を守り隊によって確実にすすめられるようになりました。
そうしたなかアサザは、年々ひろがりを見せ、最近は夏場にたくさんの花がみられるようになりました。

20111104asazaHPb.jpg


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稲架干し
2012 / 10 / 08 ( Mon ) 13:14:59
hasabosi.jpg

今年、はじめて米作りを体験しました。
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カラムシの繊維
2012 / 08 / 02 ( Thu ) 19:11:18
karamusiHP.jpg

カラムシの繊維です。
以前、坂野さんに教わって繊維をとる作業をしました。
とても綺麗な色合で驚きました。
活用していきたいところです。

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XX.よもやま話をしながら
2012 / 06 / 28 ( Thu ) 21:06:38
コメントをお送りいただいた、おるごどんさん、ありがとうございました。

第20話「よもやま話をしながら」で完結となりますが、
これからは、坂野さんからお聞きした様々なことを元に、河北潟について色んな角度から調べてまとめようと考えています。更新に時間がかかると思いますが、これからもよろしくお願いします。

仕事を持ち寄って、よもやま話をしていた・・と懐かしんで話をするときの坂野さんは、いつもどこか楽しげでした。色々と良い思い出があるのだろうなと、感じていました。
これまでに話されていた内容を文章にし、昨年一度確認していただきましたが、それをまとめたものです。


第20話 よもやま話をしながら ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃(昭和34年頃)までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしてきました。最終話となります。

当時は、潟端の部落の真ん中を、両岸が石垣で護岸された「前川」が流れておりました。20~30cmほどの大きな石が4~5段積まれた石垣の護岸です。前川の川幅は約4m、川沿いの道は巾2間ほどありました。川を挟んで両側の岸沿いに家が建ち並び、家の前の川に舟が横付けされていました。
夏は、前川の南側の玄関先など、日陰の適当なところで一服したものです。涼しい風の通る玄関先に筵を敷いて、気心の知れた人達がそれぞれ自分の仕事を持ち寄りました。よもやま話でもしながら、漁具を作ったり、修理をしたり、秋の準備をしたりと、色々と必要な作業をすすめます。年寄りや先輩が大物を捕ったときの話や、失敗談などを聞きながら手を動かしていると、時間の経つのを忘れました。
竹製のウガイの漁具も、そうしたところで準備しました。田の草取りが終わった7月はじめから8月のお盆頃までのことです。漁具の痛み具合は、日頃の使い方で違ってくるものですが、漁具を結んでいる糸や紐が古びていたり、グラグラ緩んだ状態のままで漁をすると、魚のあたり(手応え)が解らずに不漁となります。緩んだ紐や糸をしっかりと直しました。また、竹の折れたところは部分的に取り替え、新しい物を作ったりもしました。
そうした時間の中で、年寄りや先輩の知恵、やり方、コツなどを教わることができ、自分なりに工夫も加えていきました。今思えば、当時の人たちは誰でも親切で、経験が豊富にあり、何時でも気軽に応じてもらえました。良かったなあと、感謝の気持ちで当時を偲んでいます。


(「よもやま話をしながら」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.17-4 2012年」に掲載されています。)

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XⅨ.ヌカエビ
2012 / 05 / 18 ( Fri ) 19:23:28
第19話 ヌカエビ ・・・・・・・☆

19話では、坂野さんが以前に書かれた文章を掲載します。ヌカエビとライギョのことは、2010年6月に,鮒櫃は、2011年3月にいただいた内容です。文字や文のつながりは部分的に修正しています。

たしか秋の農繁期が終わった頃だったと思います。昼も近づいたので家に帰ろうと、中条フゴの川畔を歩いていたとき、ヌカエビが川の藻の水面にたくさんいるのを見つけました。この川は、幅は6尺あまりほど(約1.8m)しかありませんでしたが、深さは大人の胸ぐらいまである深い川でした。藻は、秋の入りに引きましたので、取り残したものが水面に広がって生えていたくらいに思います。ヌカエビがたくさんいる様子を見て、急いでエビを掬う網(タモ)を取って来ました。1時間ほど掬って、約1升5合くらい(5kg)は捕れて大漁でした。普通は半日かかっても捕れない量だと思いました。それ以降にも同じ場所で、このような出来事が2回ほどあったと記憶しています。
エビを捕るときは専用のタモ網を使いました。川の藻をタモで掬って、水切りをするために揺すると、藻は目皿の網に残り、エビだけが網の中に溜まりました。

ライギョを捕るのは主に、「漬漁」で捕りましたが、夏場の朝夕の暇な時間に遊び心で釣りをすることもありました。
釣り竿を利用して、釣り糸の先の針に、アマガエルの背中の皮に針を引っかけ、そのカエルをライギョの潜んでいるような川岸の藻の隙間で、蛙がチョンチョンと水面を跳ねるように動かします。ライギョはその餌に飛びついて、鵜呑みにするので、上手に捕まえることができます。そして引きの強い手応えは、釣りをしたことのある人には忘れられない快感でした。
ライギョは体の背に模様があり、ニシキヘビの模様と一部似ていたこともあって、はじめは敬遠されていましたが、ライギョを食べると、体が元気になると言われ、また海の魚に似た食感で食べるようになりました。子供の頃は、ライギョは河北潟や川にはいませんでした。戦後に急増した魚でした。
川で産卵して、卵から出ると、藻の間にちょうど蛙のオタマジャクシの群れのように水面に泳いでいました。その群れの下、水面下の藻の間で、親魚が番をしております。危険なものが近づくと、跳ねて、水面にいる子どもが「さーっ」と一気に隠れました。
体長30cm以下の小さなライギョは、捕まえても食べずに放してやりました。ライギョ釣りの餌にシオカラトンボをつける人もいましたが、効果は少なかったようです。


10月に入って、水温も下がり、漬漁に行くようになると、時々、大物の魚が入ります。そのような鮒の大物とか、三年ナマズなどの大物は、川に漬けた鮒櫃に泳がして保存しました。
水がたくさん入っていても、鮒櫃が浮きますので、上に石などを置いて沈め、杭を打って縄でしばり安定させました。
クサマキでつくるドジョウ入れ(木製の櫃)と違って、スギ材の厚い板を使いました。大きさも色々ありましたが、普通は横幅約1m50cm×奥行き70cm×高さ約25cmくらいの物でした。


(「ヌカエビ」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.17-3」に掲載されています。)
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坂野さん、ありがとうございました。
2012 / 04 / 23 ( Mon ) 19:45:56
長い間、水郷時代の潟端について色々な話をしてくださった坂野 巌さんが、2012年3月23日に永眠されました。
かほくがた通信に「河北潟の水郷~潟端より~」の連載をはじめてから5年が経ちます。
坂野さんの多大なご尽力のおかげで連載することが出来ました。どの話題も当時の様子を知る貴重な内容です。坂野さんの記憶には過去の情景や体験した様々なことが鮮明に残されていました。そのことを少しでも具体的に記録し、読まれた方がイメージできるよう表現できればと思って取り組んできました。
記録作業を続けることができたのは、坂野さんの温かい人柄に支えられていたからです。絵を描かれて説明されたり、実物を用意されたり、家に残されている道具の計測をしたりと、色々なかたちで説明してくださいました。また、坂野さんとつながる地元の人たちの協力もありました。原稿に目を通して助言・応援いただいたこと、有り難く聞いておりました。原動力にもなっていました。
感謝の気持ちを、伝えるべきことがたくさんあったはずなのに、後悔が募るばかりです。

坂野 巌さんのお話は、第20話で完結とさせていただきます。

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水車(みずぐるま)
2012 / 02 / 11 ( Sat ) 19:30:54
mizugurumaHP.jpg

田んぼが水涸れになったときに使われた「水車」。
水車を踏んで、川から田んぼに水が入れられました。

イラストは、水車を踏む女性の姿です。
水車を踏むのは、大人の男性が主役でしたが、潟端に嫁いできた人は活発でよく水車を踏まれたそうです。
女性の下衣は、絣(かすり)のもんぺに、紺色の脚絆(きはん)をつけています。足首の脚絆を結ぶ紐が赤色で目立っていたとか。上衣は桃色の木綿シャツ、腰には赤い帯をつけた女性が半分ほどいたとのことです。
頭にはハチマキをしています。女性はふだんは頬被りをすることが普通だったそうですが、水車を踏むときは汗が出るので、手ぬぐいでハチマキをしたそうです。

水車(みずぐるま)の材質は、スギ、ヒノキ、クサマキ(アテ)など。
クサマキが一番高級で耐久性があります。

津幡町歴史民俗資料収蔵庫に、水車が収蔵されていますので、現物を確認させていただきました。
水車の羽根板は13枚。
一枚の羽根板のサイズは、33cm×24cm、厚み5mm。





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◆ドジョウすくいの帰り
2012 / 01 / 19 ( Thu ) 12:24:40
dozyousHP.jpg

このドジョウすくいのイラストは、聞き取り作業をはじめて間もない頃、平成16年にいただきました。
その後、ときどきドジョウの話を伺うことはありましたが、ドジョウについて詳細をまとめることになったのは、昨年平成23年に入ってからです。6月に発行した通信にようやく「第16回 ドジョウ掬い」を掲載できました。
イラストは、もちろん坂野 巌さんが書かれたものです。
線の消えているところなどはすこし私の方で修正させてもらっていますが。

この絵をみていると、心がなごんで、元気がもらえる、大好きな絵です。
まわりの田園、水郷の潟端、空気みたいなものも想像させてくれます。
豊漁で喜んでいる様子です。


-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-


津幡も雪が積もりました。(1月25-26日)
あと一月もすれば、春もそこまで来ています

坂野さんの容体が悪くなり心配です。



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XⅧ.紐はカラムシ
2011 / 12 / 21 ( Wed ) 15:32:54
第18話 紐はカラムシ ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃(昭和34年頃)までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

麻畠
カラムシ(イラクサ科の多年草)は、茎の繊維が強く、麻として利用されていました。日常に必要な紐や縄などを自分たちで作っていた当時、カラムシの栽培は当たり前のことでした。
カラムシは、畑3坪くらいの場所(軽トラックの荷台4つ分ほどの広さ)で育てていました。その場所のことを「麻畠」といって、農家のどの家でも作られていました。麻畠の場所は、「屋号○○家の麻畠」などと呼ばれ、持ち主がふつうに知られているものでした。麻畠の広さは大小ありましたが、少ない家では、たくさんある家の余った分をもらっていたようです。
麻の刈り取り時期は夏に決まっていましたが、刈り取りをしたほうが来年良い物ができるといわれ、麻畠のカラムシは毎夏きれいに刈り取られました。カラムシのりっぱなものは、茎の太さが親指以上(直径2.5~3cmくらい)もあり、1株からたくさんの繊維がとれますので、太いカラムシが穫れるように、肥料をやって育てていました。
麻畠は、夏が近づくと蚊などの虫がたくさん発生し、嫌がられる場所でした。虫除けスプレーや殺虫剤もありませんでしたので、できるだけ近づかないようにしていました。

カラムシの利用
カラムシを刈り取る日は「土用の3番」と言われ、7月20日の土用入りして3日目が作業日でした。雨天の時は遅らせます。カラムシを育てて繊維を取るのは祖母の仕事でしたが、時々井戸水を汲むなどの手伝いをしました。
カラムシの繊維の取り方は、刈り取り後すぐに茎の皮をむいて、むいた皮を薄板の台の上に置き、専用の鏝(コテ)を使って皮を削ります。白くなるまで削り取って繊維を取り出し、水洗いして盥でしばらく晒してから、竿に吊して乾かしました。
乾かした繊維を綯って、紐や縄にします。カラムシの繊維は繊細でありながら強力で、細い紐から太いロープまで自由に作ることができました。ナイロン紐がありませんでしたので、カラムシの紐は重宝しました。また、藁で作られたロープよりも、カラムシの方が3倍も4倍も強くて丈夫で、カラムシの3本縄でつくられたロープは最も強度がありました。刈り取りした稲を積み込んだ舟を引っ張るときのロープとして用いたり、内灘へ行く舟の帆柱を立てるときにも用いられました。そのほか荷物を背負う縄、葦簀の紐、下駄の鼻緒の芯など、様々な用途がありました。
また、繊維だけでなく、皮をむいた後の茎を利用することもありました。乾燥させた茎を、家のタンスの下などに敷きつめます。カラムシの茎は中空で、吸湿、放湿性に優れている性質から、湿気取りとして上手く利用されていたように思います。

縄ない
いまでは縄を綯うことのできる人は少なくなりました。藁を3~4本ずつ両手に取り、両手の掌で縒りをかけて、一本の縄を作ることを綯うといいます。縄の太さが均一で、引っ張っても抜けたり切れたりしない丈夫なものが優れており、縄綯いも経験が大切でした。縄を綯う前段階に、藁を選って、一升瓶ほどの大きさに束ねたものを杵で叩きます。汗が出るほどたくさん叩きました。この手間を掛けることで柔らかくて使いやすい縄ができ、持ちも良くなりました。縄の出来が良いと草履や草鞋も上手に編むことができました。
それぞれの用途に合わせて太さの違う縄が作られていました。当時は、太さや長さの単位が尺貫法でしたので、縄の太さも「○分縄」といわれて通用しました。日頃一番使われた藁縄は、3分5厘ほど(約12mm)の太さで、「4分縄」と呼ばれていました。
縄の一番太いものは、なんといっても稲架縄で、8分(約24mm径)以上の太さがありました。ふつう縄は2本で綯いますが、稲架縄は3本で綯いました。3本縄でないと、稲の乾きが悪いといわれ、3本縄をつくるときは男性二人がかりで行いました。上から縄を吊して、その両脇に立って作業します。家族3人で協力することもありました。人力の縄綯い機もありましたが、藁を差し込むサイズに限界がありましたので、稲架縄ほどの太い縄は作れませんでした。
稲架縄は太さだけでなく、長さもありました。潟端では幅10間の稲架場に、稲架縄が10段架けられることが普通で、その10段分が1本の縄で張られます。長さにして100間分(約180m以上)もあります。保管するときは、縄を輪にして積み重ね、一回り6尺になるような大きさで円にし、それを10回させると60尺で稲架場一段分の長さに、それが10段分で100間と、長さを確認できる置き方をしました。この稲架縄は、冬場に作る大仕事でした。
「柴刈り 縄綯い 草鞋をつくり、親の手を助け 弟を世話し、兄弟仲良く孝行つくす、手本は二宮金次郎。」、唱歌の二宮金次郎にあるとおり、縄を綯うことが暮らしの一部にあった時代でした。

ナイロンの登場
各家で作る麻紐や藁縄は、自家用に使うのがふつうで、譲ることはあっても、売り物にはしませんでした。当時は、金沢市横安江町別院通りの目細針商店で、ロープや魚網などが売られていました。綿糸で作られたものがほとんどで、綿製のロープを購入して、荷舟を引っ張るのに使う人もいましたが、水に濡れると固くなる欠点があったようです。投網も終戦以前は木綿でした。
その後、ナイロンが流行してきましたが、ナイロン製の漁網は、高価でしたので使いませんでした。ナイロン紐が売り出されてから2~3年は、ナイロン紐にも難点がありましたが、次第に改良されて値段も下がり、利用するようになりました。自前の麻紐のように作る手間もかからず、安価なので気楽に使うようになりました。
ナイロンの普及がすすむとともに麻畠は姿を消していきました。耕して畑になったり、宅地に変わりました。そうしてカラムシ(麻紐)もいつの間にか使わなくなりました。


(「紐はカラムシ」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.17-2」に掲載されています。)

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◆水草-ヒシ
2011 / 12 / 01 ( Thu ) 19:44:08
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水面に葉を浮かべるヒシ

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ヒシの花

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ヒシの実は、ヒシの葉の裏側にみられる

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ヒシの標本

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2011年は河北潟の湖岸のあちこちでヒシがみられた。

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岸から離れたところでも。

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◆灰小屋
2011 / 10 / 20 ( Thu ) 16:59:29
haigoyaHP.jpg

潟端に唯一現存する灰小屋。
灰を保管する灰小屋は、部落内にたくさんありました。
写真のような瓦屋根の灰小屋もありましたが、トタン屋根の灰小屋が多かったそうです。

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XⅦ.田んぼに水を入れる「水車(みずぐるま)」
2011 / 09 / 20 ( Tue ) 10:18:56
第17話 田んぼに水を入れる「水車(みずぐるま)」 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃(昭和34年頃)までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

潟端は、河北潟の東にひろがる田園地帯にあって、水郷の里といわれました。竹竿を使って川舟を漕ぐ姿や、潟を通る帆掛け舟、収穫期の川沿いの稲架干しや、稲束をのせた舟が行き来する風景など、他所から来た人たちには珍しい情景があったようです。遠くから親戚が来たときには、シジミ貝をとったり、舟で潟に出て釣りをするなどして遊びました。
水車を踏む様子もそうした水郷風景の一つでした。「水車を踏んで川から田に水を入れる風景は、絵にも詩にもなる風物詩だ。」、といったことを良く耳にしました。しかし、そのようなのどかさは当の農民にはなく、田の旱魃や水車に関係のない人たちの言われることでした。水車を使うのは、田んぼが水涸れになる時で、大変な労力を要したからです。潟端では幸い、水不足による「寝ずの水番」や水争いはありませんでしたが、田植え後の稲が育つ時期に、揚水のポンプが故障したり、用水の水が不足して、田んぼが干し上がることがありました。水不足が起きると、家族で相談し、水車をアマ(農家の二階の物置)から出しました。

水車の用意
水車は、高さ約158cm、幅約216cmの大きさがありましたので、運ぶときは舟を使いました。ただ、ところどころに川を土嚢で止めたところがありましたので、舟で運ぶのにも苦心しました。春耕時に牛馬を通すのに積まれた土嚢です。
また、舟を通せない場所にある田んぼへ行くのがやっかいでした。どのような方法で水車を運ぶと良いか、家族で話し合ったものです。川畔の道幅も狭く、一輪車もリヤカーも持っていない時代でしたから、すべて人力で運ぶしかありませんでした。例えば自宅から2kmも離れた百石川近くの田んぼが干し上がったときは、水車を二つに分解して、背負ったり、肩に担ぐなどして、途中何回も休みながら運びました。
目的のところまで運び終えたら、川に水車を設置します。水車の車輪の深さは、水車を踏む人に合わせて調整しました。踏む力の強い人は、羽根が深く浸かるように低く設置します。例えば体重55kg、身長165cmの場合、水車の深さが25cm位になるよう仕掛けました。
水車は2本の竹竿と紐で固定されました。竹竿は水車を挟んで1本ずつ立て、川底の泥の中へ力一杯差し込みます。水車を踏むときに竹竿の上部を握りますので、握りやすい角度に取り付けました。作業中に傾かないよう、水車と竹竿を紐でしっかりと縛ります。また、川の水面と田んぼの水面の差が1m以上ある場合は、水車が使えませんので、仕掛けるのに別の工夫がいりました。見極めのいる水車の設置は経験を積んだ人がおこないました。

水車を踏む
水車は、別名「踏車(ふみぐるま)」と言うようですが、踏車という言葉は聞いたことがなく、潟端では「水車(みずぐるま)」の名で通っていました。人が水車の上に乗り、羽根板の端を踏み動かすと、羽根板が水面を叩きながら回ります。回転する水車の羽根板によって、川の水が汲み上げられ(押し上げられ)、田んぼに水を流し込みます。
水車の羽根板を300~500回も踏むと、汗が出て足も疲れます。水車の台の上に座って一服すると、周りが見渡せて気持ちの良いものでした。少し高い位置からの眺めで、田んぼの水が行き渡っていないところも確認できます。「まだあの辺にも水がいっていないな、何分の1くらいや、まだがんばらんといかんなー。」というもので、また踏み出します。身軽に水車から飛び降りて、田んぼのどの辺まで水が届いたかを見に行くこともありました。田んぼの水位が1寸(約3cm)にならないと、1人前の仕事をしたことにはなりませんでしたので、5cm位になるのを目標に、何度も水車から降りては田の先々まで見に行ったことを覚えています。
水車を踏むのは、大人の男性が主役でしたが、潟端に嫁いできた人は活発でよく水車を踏みました。身軽な子供も手伝いました。当時は人手不足で、学校から帰って水車を踏んだこともあります。高等小学校2年(今の中学2年生)の頃でした。

潟端の水車
潟端では、ほとんどの家が水車を持っていたようです。普段はアマか籾殻小屋などに保管されており、田植え後の用水不足が続いた年にのみ使われました。何年かに一度のペースで使われていた様子です。水車は使い終わると、すぐに日陰や納屋まで持ってきて、長持ちするよう大事に扱いました。
潟端には水車を作る大工さんが1人おりました。部落の東入口に所在した松井大工さんです。細工が上手で、使う人の意見をよく聞いてくださり、自分の工夫や考え方も話す熱心な棟梁で、皆から信頼されていました。父親のときにクサマキの立派な細工の水車を作ってもらいました。農機具ポンプの普及がすすむにつれて、人力の水車は姿を消していきました。水車を使わなくなった頃、資料館に収蔵するための道具を集めに廻っていた部落の住職さんにお願いされ、水車を寄付しました。

(「田んぼに水を入れる「水車(みずぐるま)」」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.17-1 2011年」に掲載されています。)

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○ 問い合わせ先
2011 / 08 / 24 ( Wed ) 20:37:03
<問い合わせ>
左下のメールフォームよりお願いします。m(_ _)m 
住所: 〒929-0342 石川県河北郡津幡町字北中条ナ9-9(NPO法人 河北潟湖沼研究所事務局)
聞き書き人なまえ:川原奈苗

※ メールが受け取れない状況になっていました。
  申し訳ございません (>_<)


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◆『いずみ』図
2011 / 08 / 19 ( Fri ) 13:13:40
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藁製のショルダーバック。
稲藁でぬった縄を編んで作られた。
年寄りのいる家は作ってもらえた。

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XⅥ.ドジョウ掬い
2011 / 07 / 12 ( Tue ) 08:30:42
第16話 ドジョウ掬い ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

ドジョウは、潟端を流れる川にふつうにいる魚ですが、ドジョウを捕るのは6月末から7月中頃の夏の一時期でした。「土用の丑(7月20日頃)になるともう駄目なんや。」と言われ、7月20日を過ぎると数が入らなくなり、8月になると全く捕れなくなりました。
 部落内を流れる前川にはドジョウがたくさんいましたが、家庭排水が直接流れ込む場所のドジョウを捕ることはありませんでした。

ソウケ
「泥鰌掬い」というと、まず思い浮かべるのは、民謡『安来節』に出てくる男踊りでしょう。水玉模様の手拭いで頬かむりをして、5円玉を通した糸を耳からかけて鼻先にのせ、おまけに鼻下に2本線、頭には竹でつくられたザル「ソウケ(潟端の方言)」をかぶり、着物は尻まくりしてフンドシの垂れを見せ、腰には小さなイコ(魚の入れ物)を、肩にタスキを掛けた野良着姿で登場します。その踊りの身振り手振りや、足さばき、また掬ったドジョウをイコの中へ入れる仕草や、イコに入れたあと顔を上げて満足そうに笑う姿は、泥鰌掬いをする人の気持ちをそのままに表現したものと思います。
この竹で編んだザル「ソウケ」は、子どもの頃には各家々の台所にあって、米や豆などを洗うのに使われていました。ドジョウが捕れる時期には、小学校から帰るとすぐにソウケとバケツを持って、2~3人で近くの田んぼや小川へドジョウ掬いに行ったものでした。田んぼの水落口にソウケを当て、足でジャブジャブ踏み出すと、オタマジャクシやドジョウが逃げ出してソウケの中に入ります。藁を使っている水落口では2~3回同じ事をやっても、ドジョウが出てきました。

ウイ(またはウエ)
ドジョウ捕り専用の漁具には、潟端の方言で「ウイ(またはウエ)」がありました。これは潟端では主に田んぼの水を落水するときに用いました。6月中頃から7月中頃まで、田に溝を付けて、田んぼを乾かす段取りをします。田んぼの草を取りながら、泥を両手で掘り動かして溝を作っていると、ドジョウの気配を感じることがあります。そうした時は、水落口にウイを当ててから落水しました。田の水が次第に落ち、水が無くなった時を見計らってウイを取りに行きます。だいたい3合~5合くらいのドジョウが捕れましたが、思いがけないほどたくさんのドジョウが入っていることもありました。

タモ(タモ網)
ドジョウを捕るのに一番よく使っていた漁具は、ドジョウ掬い専用のタモ(タモ網)でした。このタモを持って外に出ると、「ドジョウ掬いに行くのかね。」と、聞かれたものです。網は蚊帳のように繊細で、普通のタモ網より少しサイズが大きく、網に袖袋が付けてあるのが特徴です。掬ったドジョウを溜められるので、この網があるとドジョウが捕れてもそのまま水の中を引きずりながら歩いて、ドジョウの棲んでいそうなところをタモで掬ってまわることができます。タモを担いで歩いている姿を見ると、豊漁かどうかがわかりました。
袖袋にドジョウがある程度溜まってくると、泥鰌入れ(泥鰌櫃)に移します。泥鰌入れは漁をしている間は日陰に置いておきました。上手な人は、半日で5升(10kg位)も捕れることがありました。ドジョウの大漁です。たくさん捕れたドジョウも、土用の丑の日を過ぎると不思議に捕れなくなります。
このドジョウ掬い専用のタモを持っている家は少なく、当時潟端の部落90軒余りある中で10軒ほどでした。タモが使えないような狭い場所では、ソウケを使いました。

蒲焼き、柳川丼に
捕ってきたドジョウは、冷たい井戸水を入れた大盥に、2~3日泳がしました。水を1日に何回も替えて、ゴミなどを十分に吐かせるようにします。猫に捕られないよう葦簾をかけるなどして、外の涼しいところに置きました。
土用の丑の日も近づくと、通称ドジョウ商人が魚屋さんを連れて買いに来ます。1cm間隔ほどの竹桟を目皿のように入れた木箱を使って、太めのもの、細いものを選り分けました。太いドジョウは蒲焼き用になるので高価でした。細いものは柳川丼だと言っていました。土用の丑の頃は値が一番高くなりますが、あまり捕れなくなるので、前もって蓄えておきました。
また、泥を吐かせたドジョウを新鮮なうちに地主の家に持っていきました。自宅では最後に残ったドジョウを食べました。器用な人は蒲焼きにできましたが、柳川丼にして食べるのがふつうでした。あまりたくさん食するものではなく、若い人はあまり口にしませんでした。

ドジョウ掬いの狙い時
稲の生育も進み、田んぼの除草も一段落する7月頃になると、川から揚げていた用水のポンプを止める日が出てきます。水の流れが無くなると、用水路や川の一部に淀みができ、夕暮れ近くは水温が上がって酸欠状態になります。こんな時、そこにいた魚は水面近くで口をパクパクさせ、人が近づくとガバッと水中へ逃げます。ドジョウも水面近くでぴしゃっと跳ねるのでわかります。たくさんドジョウがいるところでは次から次に跳ねるので、そんな場所には翌日になると誰かがドジョウ掬いに行っているものでした。
日中の暑くて皆が昼寝をしているような頃を狙って、密かに捕りに行ったりもしました。田んぼの小川でドジョウ掬いに熱中しているときは、ヒルに血を吸われても気づかないくらいです。あとで足を見た時にびっくりします。ドジョウ掬いの上手な叔父さんに色々と教えてもらった記憶があり、隠れ場所から足の裏で追い込む水中の足技を習ったことを思い出します。

(「ドジョウ掬い」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.16-4」に掲載されています。)


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XⅤ.田螺拾い、シジミ採り
2011 / 03 / 09 ( Wed ) 08:58:34
シジミを採っていた話は、当時の河北潟の話題になると、よく出てくる話で、坂野さんからもよくお聞きしました。タニシやイシガイの類の話はあまり聞いたことがなく、それぞれの貝がどのような場所でとれたのか、どのようにして食べたのか、興味深い内容で詳しくお聞きすることができました。この聞き取り作業で印象強く残っていることは、タニシが田んぼのどういった場所にどれくらいいたかなど、タニシがいた様子を問いかけたときのことです。なんといったらいいかとしばらく悩まれたのち、「田んぼにばらまいたようにいた。」、これが一番近いかなといって表現されました。この表現はその様子を知らないわたしには思いつかないことで、なるほどーと「ばらまいたように」と聞いたときに自分でもイメージがひろがって、何度もうなずいてしまったことを思い出します。


第15話 田螺拾い、シジミ採り ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

河北潟が干拓される以前の潟は、塩水の混じる汽水湖でしたので、カレイやサヨリなど海の魚もよく見かけました。魚貝類が豊富で、潟縁ではシジミ貝がたくさん採れました。潟端には河北潟に通じる川が数本流れていましたが、その河口部の潟の中を歩くと、無数のシジミが足の裏に当たり、シジミの上を歩くようなところもありました。シジミはそうした河口部の砂地のところに集まっていましたが、川には黒色の大きな貝が泥の中にいました。ドロガイまたは淡貝とかカラス貝と呼ばれ(イシガイの類)、川のどこにでもいる様子で前掻き(川底に潜む魚などを獲る漁具)で良く採れました。大きいので食べ応えがありましたが、食べ過ぎるとお腹が緩むので、3~5つ以上食べるなといわれました。田んぼにはタニシがばらまいた様にいました。

田螺拾い
稲刈りを終え、脱穀作業も終えた10月頃になると、近所の主婦達が数人集まって田螺拾いに出かけたものでした。普段から仲良くしているメンバーが2~3人、多い時には5人くらいで相談し合って、天気の良い日を選んで行きます。あまり目立たないよう密かに行動していました。行き先は部落北側の田んぼが中心で、通称フゴ地帯(潟から切り離されてできた沼地のあった場所。周辺より地盤の低い湿田地帯)の田んぼの川寄りが狙い目でした。川(用排水路)ももちろんです。「田螺は塩分にとくに弱くて棲むことができない。」と、古老などから聞いていましたので、潟に近い側の田んぼには行きませんでした。潟端より北の、中條フゴから太郎フゴ、旧井ノ上村の五反田地区、中須賀地区まで遠出したようでした。
タニシは粘土質の田んぼには溢れるようにいました。砂がかったところには見られず、粘土質で泥深い太郎フゴにはとくにたくさんいたようです。また、水路にもいましたが、多くは田んぼに上がってきました。田螺拾いは稲刈り後の暖かい間だけでした。寒くなると一斉に泥に潜って姿を見せなくなりました。
田螺拾いをする女性の格好は、もんぺに脚絆、割烹前掛け、綿入れのベストをして、腕抜きを付け、頭には手拭い、その上に頭巾をして、さらに笠をかぶりました。左手には拾った田螺を入れるイコ(2升入り)を持ち、右手で田螺を拾いました。イコに溜まった田螺は叺(肥料袋。肥料を使い終えた後、川水で洗って乾かして再利用した。)や「いずみ」(縄で編んだバック)に入れました。
タニシは、現在水路などでみられるタニシよりも大きくて丸みのある貝でした。ただ当時も大きいタニシと小さいタニシがいましたが、食べ応えのある大きいタニシだけを採っていました。小さいものはやがて大きくなると思っていました。ザリガニが増え、農薬を撒かれたりしたことで、タニシが減ったような印象がありました。今では食べる人もいません。

田螺の調理
持ち帰ったタニシは、自宅の窯に大きな鍋を掛けて、何回にも分けてたくさん茹でます。天気の悪い時に一気にする作業でした。棒で混ぜながら茹でますが、混ぜていると貝と貝があたってジャラジャラと音がするのでした。茹で上がると、固く閉じていた蓋がとれ、身の部分を通し針を使って取り出します。腸は殻の中に残しました。小学生の子供でもできるので、親の手伝いをしたものでした。貝殻と腸は空き地や畑の隅に穴を掘って埋めました。
取り出したタニシの身の部分を、今度は藁灰を入れた桶の中で水洗いします。わたのかすや滑りをとるために、足で踏み洗いし、藁灰で滑りを十分に取り除きます。そうすると、アクが取れて美しい黄白色になります。綺麗になった身を水の中で冷まして出来上がりです。これを食品として近江町などに売りに行きました。タニシは他に業者がいなかったようで高値で売れました。当時は女性の副業になるような仕事も少なく、タニシの処理作業は良い小遣い銭稼ぎになりました。出来上がったタニシの身を金沢の近江町市場へ持っていくと、店の人が予想以上の高値で買ってくれたようです。帰る時にもまた持ってきて欲しいと言われたようで、嬉しくて「又来るから頼むね。」と、言葉を交わした思い出話も聞いています。
余ったタニシは、豆と煮付けて食べました。売るほどの量が採れなかった時も自家用にしました。豆とコンニャクを小さく刻んで混ぜた煮物は美食でした。

シジミと淡貝
シジミは年中採れるものでしたが、潟の水が温む7月~9月頃しか採りに行きませんでした。シジミを採りに行くのは、もっぱら女性や子供達の仕事でした。足の裏でこすりながら寄せ集め、手を入れて拾い上げます。現在川で見られるようなマシジミと違って、黒色の大粒の貝でした。百石川とアクスイ川の河口の潟にいるシジミは、とくに大粒で綺麗な黒色をしていましたが、部落の境界付近に位置するのであまり採りに行きませんでした。黒色のシジミの貝の裏側は、紫味のある紺色をして綺麗でした。
シジミはタニシよりも安値でしたので、潟端ではシジミを売りに行く人はほとんどおらず、たくさん採った時は近所の人に配りました。また、淡貝は売れませんでした。淡貝もタニシと同じ調理方法で、身を出してアク抜きしたものを醤油などで煮付けて食べましたが、お腹が緩むので少量で十分でした。

(「田螺拾い、シジミ採り」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.16-3」に掲載されています。)

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◆潟端昔図
2011 / 01 / 18 ( Tue ) 18:57:56
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↑ 昭和20年頃の潟端を、坂野さんの聞き取りに基づいて作図しました。潟端の集落の南北に水色に塗られた場所がありますが、北から「太郎フゴ」、「中條フゴ」、「太田フゴ」と呼ばれたところになります。
フゴの場所は、まわりから浅い鉢状に下がっていたそうで、その場所にある田んぼは雨が降るとすぐに水浸しになったようです。

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↑文政9年の「加州河北郡図」を参考に作成した図。
河北潟・大野川-その変遷と風物-.1991.角島一治.に掲載されており、この書籍ではほかにも古い地図や絵、写真を見ることができます。

文政9年・1826年の「加州河北郡図」にはフゴがはっきりと描かれています。赤枠で囲った部分の2つの入り江は、北から「中條不湖」と「太田不湖」と記されていました。
太郎フゴは小さかったのか、もっと昔に消滅したフゴなのか、あるいは中條フゴが2つに分かれるなどして後につけられた名前なのか、加州河北郡図にはありませんでした。

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◆潟端位置図
2011 / 01 / 09 ( Sun ) 21:01:15
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          ↓
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    1947年
          ↓
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    2002年(1970年代以降およそこの形に)

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XⅣ.水草『ヒシ』の実
2010 / 12 / 18 ( Sat ) 19:39:43
前回の「水草のある川」の聞き書きをしているとき、ほかの水草に比べてヒシの話題がたくさん登場しました。魚貝類同様、採って食べていたものについての坂野さんの記憶は豊富です。一つ一つ思い起こされる話を記録して、整理して、結びつけて、またお聞きして、そんな作業をしていると、自分も当時の川にヒシの実を採りに行ったことがあるような錯覚がおきてしまいます。ヒシは現在でもわりとふつうに見られるので、想像がリアルになるせいでしょう。
2010年と2011年の秋に、湖岸や川辺で「ヒシの実採り」をしました。胴長を履いて、水深が腰から胸下くらいまであるところです。水が澄んでいたら、とってもおもしろいと思いますが、水が濁っているので、腰から下がなにも見えず、気を抜けない作業になります。湖岸で水質調査をしたときも、水深80cmくらいのところを歩くときは相当神経を使いました。厚みのある暗い水の中から、ぬーっとオオマリコケムシが漂ってくるときは、恐ろしくて一瞬体が硬直してしまうのです。


第14話 ヒシの実 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

潟端の農地は江戸時代より受け継がれてきたものですが、終戦後におこなわれた二度の耕地整理により、その姿は大きく変わりました。今は田んぼの大きさや形が規則正しく整備されていますが、当時は四角や三角、丸みのある田んぼで、大小異なっていました。その間を流れる川には、舟一艘が楽にすれ違えるほどの幅広い川もあれば、曲がりくねった細い川もありました。夏場は水草がよく繁っていましたが、その種類も豊富であったように思います。数ある水草の中でも、水面に葉を浮かべるヒシは、夏にヒシの実を採って食べていましたので親しみがあります。栗のような味のするヒシの実は、子供たちの良いおやつになりました。

ヒシの実採り
お盆近くの夏休みに遠くから来客があると、よく子供たち同士で川へヒシの実採りに行きました。家にある掃除用の熊手や、カンコ(漬の枝を取り上げる道具)を持っていきます。道具があると、水面に浮かんでいるヒシを岸にたぐり寄せることができて簡単に採れました。川畔にはナスなどの野菜が植えてありましたので、岸から採る時は野菜を傷つけないよう気を付けました。ヒシはあるところには川一面を覆うほどたくさん生えていました。一株のヒシの葉の裏には、3~4個の実がついていましたので、一時間もいるとイコ(竹で編んだ入れ物)に一杯になるほど採れました。採ったヒシの実は、家に帰って水洗いし、塩茹でしたものを半分に割って食べます。食べ物の無い時代でしたので、子どもたちにとっての嬉しいおやつでした。また、来客には大変珍しがられました。
ヒシの実が採れる時期は、夏の短い間だけでした。それは、お盆前かお盆過ぎにおこなわれる秋の取り入れ前の総人夫(稲刈り前の川の泥上げや除草)によって、ほかの水草と一緒にヒシも取り除いたからです。また、遅くなると実が落ちやすくなることもありました。熊手などで岸に引っ張り寄せた時に、すぐにポロッと外れて川底に沈んでしまいます。でも逆にあまり早くても、花が咲いている頃の実は、まだ小さくて軟らかい状態でした。頃合いを見計らって、毎年ヒシの花が咲きはじめると、時々様子を調べに行ったものです。
そうしたことを抜きにすると、じつはポロッと落ちる頃の実が一番美味しい状態でした。この熟した実を採る時は川に入って、丁寧に葉を裏返し、一つ一つ実を摘みとるようにします。ヒシが生えている場所は、腰か胸くらいまである少し深いところでしたが、手に取ったヒシの下の辺りは、水が透き通ってとても綺麗な様子でした。ヒシが生えているところは特に、水が澄んでいた印象があります。

ヒシの実の採集場所
ヒシには、大きいサイズの実ができるものと、一回り小さいサイズのものがありました。小さいサイズのヒシは、部落近くの大フゴ川のところに多くみられましたが、家庭排水が流入する近くのヒシを食べることはありませんでした。この小さいヒシにも実がたくさんできましたが、黒くて小さく刺々しい印象で、採って食べたような覚えはありません。
大きいサイズのヒシの実は、食べやすいこともあって喜ばれました。部落から500m以上離れた横川へよく歩いて採りに行きました。大きいヒシが生えている川は限られていましたが、横川にはたくさんありました。ヒシは、膝丈や太股くらいまでの浅いところにはあまり生えていませんでした。横川は年中、穏やかな水の流れのある川でした。ヒシは川に自然に生える水草ですので、魚を捕る時と同様に、密かに良い場所を見つけて採りに行くこともありましたが、ヒシが生えているところの側の田んぼの家に一言断って採りに行くと安心でした。 

(「ヒシの実」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.16-2」に掲載されています。)


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XⅢ.水草のある川
2010 / 09 / 09 ( Thu ) 22:41:08
川に生えていた水草の話のまとめ作業に取りかかった時、ようやくここまで来ることができたと内心思いました。潟端の辺りにはどのような水草が生えていたのか、最初からとても興味のある部分だったからです。第12話をまとめるまで色々と話を聞いてきましたので、だいぶ当時の潟端を想像できるようになったと思っていましたが、お聞きしないと見えてこないことがまだまだたくさんあります。川によって、こうも状態が違っているとは、驚きました。


第13話 水草のある川 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

潟端の農村風景は江戸時代より受け継がれてきたものですが、終戦後二度に渡っておこなわれた耕地整理で大きく変わりました(1952年頃と1966年頃)。一度目のときはほとんど人力でおこなわれ、舟の通る川はまだ残されていました。二度目のときにブルドーザーなどが出動し、川や湖岸の様相が一変しました。潟端の田園風景はまさに水郷でしたが、曲がった川や田んぼも真っ直ぐになり、用排水路もコンクリート造りとなって、数少ない川畔の木や、素足で歩いた道もなくなりました。いまでは当時の記憶を思い出せる方達も少なくなっています。

色々な川(水路)
潟端には大きな河川はないものの、山側から潟に向かって流れるいくつかの川(排水路)は、舟一艘が楽にすれ違えるほどの幅がありました。地元で中條川(下流側を十二号の川と呼ぶ)、荒川(十五号の川)、太田川、ギ割川、百石川と呼んでいる川です。いずれも部落と潟の間を北から南に流れる横川でつながっていました。このほかにも十四号の川、アクスイ川などがありました。だいたい9尺~10尺(3mほど)の川幅でしたが、太田川はとくに幅広くて水深があり、潟へ舟で出るときはこの川を通るのが普通でした。ここは舟の通行路としてよく手入れされていましたので、水草がほとんどありませんでした。たいていの川は膝か太股くらいまでの水深で、夏には水草が繁茂しました。百石川は腰の辺りまで水位があり、川幅の割には深い川でした。稀に大人の胸くらいまである川もありました。深い川のところは藻がたくさん生え、水が透きとおって冷たい感じがしました。
潟端の用水は、森下川の上流から津幡川へつながる河原市用水からきていましたが、春耕には水不足となりましたので、潟端の田んぼにはおもに中條川と太田川からポンプで揚水した水が使われました。そのため田んぼに水を回す時期には、中條川や太田川の水が無くなることもありました。
隣の川尻には、津幡川をせき止めて、田んぼへ水を流している川尻用水路がありました。幅2m弱ほどの水路で、周辺よりも高い位置を流れていました。

川の管理のしくみ
舟の通路、排水路、用水路の機能を持つ川は、地元で大切に管理されてきました。川の泥浚いや、藻引き(川に繁茂する水草の除去)などは、部分的には田んぼの関係者がしていましたが、年3回ほどは「総人夫」で部落全員総出となって作業しました。「人夫」とは、部落で人手を必要とする作業に出る人、いわゆる日雇い労働者でしたが、行事を指す言葉でもありました。「今日は人夫の日や。」というと、川で作業する日でした。人夫は各班に1人とか2人が交代で割り当てられ、藻引きに限らず、土嚢をつめて馬が通れる小道を作ったり、水を通すための整備をしたりと、大体のことが人夫でまかなわれていました。
部落全体で取り組む総人夫は、毎年3月5日頃と、お盆の前後、そのほかに1回の年3回はありました。このような年中行事は、毎年1月の初寄席(村の総会)において、およその日取りと予算が決められます。初寄席には部落全員が出席し、部落の区長さん、実行組合長、歩き(連絡係)、各班の班長さんといった新年度の役員が顔を合わせます。当時は部落戸数が8班に区分されていました。
1回目の総人夫は、田植えの準備・段取りとして、毎年「田祭り」に合わせて3月5日頃におこなわれました。田植え前の用排水路の掃除がおもな仕事で、川に溜まった泥を鋤簾で浚います。取り除いた泥は、田んぼに客土しました。貝や藻が混じる川の泥はとても良い肥料になりました。
お盆前かお盆過ぎには、前川の川掘りがおこなわれました。稲刈り前の準備として、舟の運航の妨げになるものを除去します。川底を深く掘り下げる必要があるので、前川の水をせき止めて水をくみ出し、川底が見える状態で作業しました。各自が責任を持って、自宅前の川底に溜まった泥を掘ります。泥上げを十分にしないと、川上の家まで舟を通せなくなるので、支障を来さないよう注意しました。掘り取った泥はそのまま道路の端にしばらく置いて乾かし、稲刈りを終えた田んぼに入れました。空き地に積み置きして必要時に使う人もいました。
川の藻引きも、年に一度は総人夫でおこなわれました。20~30人での作業になります。総人夫以外でも、藻引きは5月からお盆くらいまでの間に2~3回、関係者が必要に応じて自主的におこないました。また、田植えや稲刈り時期など人手のいる時は、他の地域から人夫が応援に来ることもありました。

水草の記憶
たいていの川には、フサモやエビモなどの沈水性の藻がありました。エビモが繁っているところには、夏場にゴリがたくさんいるので、ゴリ捕りのポイントにしていました。黄色い花を咲かせるアサザは、川底が砂質のところにたくさんみられましたが、潟端ではそうした場所は限られていました。ヒエのムシロと呼んでいた水草は田んぼにあって、引っ張ると途中でちぎれて残るので取り除くのに苦労しました(ヒルムシロ属の一種)。
とろろ昆布みたいな粘りのあるジュンサイのような水草もありました。それは友達に教えてもらって、太田川の上の支流の良場という場所(川がカーブしたところの上流側)にあることを知りました。わずかな範囲でしたが、そこは胸の深さくらいある細い川で、川底は砂地で固く、水がとても綺麗でした。ほかの川ではあまり見かけない、気持ちの悪い腹の赤いイモリが何匹もいましたが、魚はメダカとかモロコくらいと少し変わった場所でした。ジュンサイは仏教の精進料理で貴重なものとされ、滅多に食べることはありませんでしたが、小学校の頃に親を喜ばせようと採って帰ったことがありました。アクスイ川の河口から100mほど上がったところには、ミズオオバコが水際に生えいたことがありました。アクスイ川は普段は穏やかですが、雨が降ると水かさが増して流れが速くなる川でした。ミズオオバコは耕地整理されてからも少しの間は残っていたように思います。
川にはヒシもありました。ヒシについては次号に詳しく掲載する予定です。

(「水草のある川」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.16-1 2010年」に掲載されています。)

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XⅡ.自然を読む力
2010 / 07 / 09 ( Fri ) 19:08:23
自然を読む力(観る力)がなければ、自然環境を保全しようにもどうにも結びつかない、だから環境とそこにいる生物に目を向けることが大事だと思います。また、普段の生活で野外に出ることさえ少ない現代人にとって、いろいろなところで開催されている、いわゆる「自然観察会」は、自然を見る目を養う場としてとても重要であるように感じます。
河北潟を巡った物々交換の話は、物々交換ということだけに絞って話を書きまとめたいと考えていました。でも聞き書きをしているうちに、物々交換と一緒にでてくる話題を無理に切り離すこともないように思い、自然を読む力としてまとめるにいたりました。文章を書く能力があれば、これらの結びつきがわかるようなかたちで上手く表現されるのでしょうが、できていません。また、物々交換についてはもっと深い内容で、もっと色んな人から情報を集めることができたらと思っています。
・・いまは無くなった?、海鳴り、竜巻の話、不思議です。


第12話 自然を読む力 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

河北潟を巡った物々交換
潟端は藩政時代に開村した部落で、河北潟の東縁を開墾してできた水田地帯にあります。潟端の暮らしは稲作が基本でした。逆に河北潟の西側、日本海に面した砂丘地では稲作は難しく、漁業が盛んでした。そのため、潟端など河北潟の東寄りにある部落と、旧内灘村の大根布、宮坂、西荒屋、室、内日角とは昔から物流・交流があったようです。
潟端から内灘へは、米、屑米、藁、薪、灰などを、反対に内灘からは、魚貝類、昆布、スルメイカ、当時は作れなかったスイカやサツマイモなどをいただきました。地元では手に入らない物を交換、売買して、お互いに生活の足しにできました。
4月下旬頃になると、日本海では鰯がたくさん獲れ、内灘の人たちが舟で運んできました。内灘から河北潟を渡って来た舟は、川を遡って取引する家の前まで来ることもあれば、部落西側にある"どんど"(部落から流れてくる水をせき止めていた場所)に舟を着けて商いをする人や、潟から川に入って間もないところで上陸して売り歩く人もいました。天秤を担いだ内灘の人が、「鰯いらんかいね。」と大声をあげて売りに来たものです。
内灘から運ばれてきた鰯には砂が一面につけてありました。鮮度を保つために塗された砂で、鰯は新鮮な状態で届きました。そうした鰯しか見たことがありませんでしたので、潟端では誰もが「鰯には砂がついているもの」と思っていました。
内灘の人たちは、冬になると北海道へ出稼ぎの漁に出ましたので、北海道の昆布やスルメイカなども持ってきてくれました。とくに珍しいのがホタテの干し貝柱で、高級品でなかなか口に出来ませんでした。家の向かいに内灘の舟がつながれていると、内灘から人が来ていることがわかり、その家の知人や親しくしている人たちが集まりました。囲炉裏端へ上がり込んで、北海道の話をきいたり色んな話をしたりと交流が賑やかにありました。話が弾んでくると、北海道民謡の江差追分やタント節を習って謡うこともありました。
潟端では、米一升でよく取引がおこなわれました。当時は地主に年貢を納めていましたので、目立たないように小売りしていました。米は収穫後に米選機に流して、屑米と選別します。金網の幅を調整して、小さいサイズの米(屑米)を下に落としました。一等米を用意するときには金網の幅を広くして、大きいサイズの米だけが残るようにします。そのような選別方法なので屑米の質は様々でした。方言で「ダゴノモン」というと屑米のことで、誰にでも通用する言葉でした。屑という言葉からは不要な物というイメージを受けますが、屑米は貴重がられたものです。屑米を石臼で挽いた米粉を、小さい団子にして押しつぶしたものを小豆で煮込んだお汁粉は、非常に美味しくてお腹もふくれました。手間の掛かる汁粉はお婆ちゃんがつくってくれる有り難いものでした。
潟端は稲作のおかげで、日常煮炊きするときの燃料にする藁や籾殻がたくさんありました。また、囲炉裏端で藁や薪を燃やしたり、竃でご飯を炊くときに籾殻を燃やすので、非常にたくさんの灰がたまりました。一方、砂丘地側は水田が少ないので、潟端の藁や籾殻、灰が必要とされました。藁や灰は、畑の肥料にもなりますが、サツマイモなどの苗にかぶして砂で焼けるのを防いだり、湿度を保つのに使われたようです。砂丘地の松の葉は燃料にされましたが、松葉を燃やしてとれる灰は少量でした。

大事にした言い伝え
当時は現在のような交通網が発達しておらず、一般には舟以外は人力の荷車しかありませんでした。潟端から内灘まで行くには、陸からは遠回りになるので、舟のほうが楽でした。ただ潟端の舟は、稲を運搬するために作られた舟でしたので波が入りやすく、潟端の舟で内灘へ行くことは稀でした。潟端でも浜通いする人(内灘へ行商に行く人)が数名いましたが、そうした人たちは内灘の中古品の舟を買って使っていました。内灘の舟は舳先が上がっているので、多少波があっても大丈夫でした。
西荒屋の二ツ屋彦次郎さんとは、むかしから坂野家と交流がありました。西荒屋から舟で河北潟を渡ってきたときに、坂野家でよく一服しましたが、「河北潟に吹く風は時計の針周りで、北風が吹いたら、山瀬風になり、そして下りの風にまわる。漁をするときや潟を横切るときの知恵だ。」と、よく語っていました。潟端では、北風のことを“北風(あいのかぜ)”、東風を“山瀬風(やませ)”、西風を“西風(まにしにのかぜ)”、金沢の方から潟端へ吹く南西の風を“下りの風(くだりのかぜ)”と言っていました。内灘の人は風向きが悪くても、帆を操る技術を持っていましたので、斜め向かい風が吹いている中でも上手に帰って行きましたが、追い風を利用すると楽に戻れるようでした。「北風が吹いて、山瀬風になったら、帆を上げて帰らなダッチャカンワ(方言:帰らなければいけないわ)。」と言って潟端を出発するのでした。
八十八夜を過ぎると(立春から数えて88日目)、潟端では霜が降りないといわれました。水苗代の時は、霜が降りたら水をかけないと苗の先が白く枯れるので注意が必要でした。また、「霜は3日は続かない、3日目の夕方から雨となる、ただし3日で雨が降らない場合は4日目も晴れるが、夕方から下りとなる。」という言い伝えがありました。そのほかにも天気を予測する謂われが色々あります。「朝虹を見て川を渡るな、雨になる。」、「雨壺が(西南の空)が暗かったら雨となる。」、「うろこ雲が現れたら明日は雨」、「烏の水浴びを見たら、明日は雨」、「太陽が日笠をかぶったら、明日は天気が悪い」、「月が笠を被っていたら、天気が悪くなる」、「山が綺麗に近く見えたら、風が強く吹く。」など、小さい頃から親に聞かされました。情報の少ない時代でしたので、このような知恵を大切にしました。

自然現象
「波静かなる 河北潟 岸の田の面を 眺むれば 加賀の社の大神の 深き恩恵を 思うかな。」、通学していたときの中條小学校の校歌2番です。校歌にもあるように河北潟は穏やかな湖でした。潟端は低地にありますが、家々が水に浸かる危険はありませんでした。大雨が降って津幡川が氾濫したときは、潟端でもとくに低いフゴ地帯の水田(もともとフゴのあった場所の水田のこと。フゴ:潟から切り離されてできた沼地・小さな湖)は水浸しになりました。粘土質で水はけが悪く、1週間も水につかったこともあります。稲が水につかると萎縮病にかかり、不作となりました。
天候の悪い時は、荒波と風の唸る音が日本海の方から聞こえました。日本海の海鳴りといわれるものです。海鳴りはいつも、潟端から見て金石のほうから聞こえ出し、それが次第に能登半島の方へ北上していきました。30分も同じところで海鳴りがすることもあれば、2~3時間で行ってしまうこともあり、半日の間、ゴーゴー、ゴーゴー唸っていることもありました。最近は騒がしいせいか、海鳴りが聞こえなくなりました。
また、河北潟の背後にみえる内灘砂丘の上では竜巻がよく起きていました。潟端から見ると、金石から宇ノ気のほうまで日本海側が広く見え、端から端までの間に、5本も6本も竜巻が同時に数えられることもありました。金石港ができた頃からか、竜巻がまったく見られなくなりました。

(「自然を読む力」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.15-4」に掲載されています。)

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◆ヨシ葺きの家図
2010 / 06 / 18 ( Fri ) 18:53:44
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現在は瓦屋根の家が多いですが、以前はヨシで葺いた家が多かったそうです。屋根の形状はイラストのとおり。美しい形ですね。煙だし窓のある構造です☆

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ヨシは、「アシ」と呼ぶ地域もありますが、潟端では「ヨシ」と呼ばれていました。

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XⅠ.大切なヨシ
2010 / 06 / 08 ( Tue ) 15:37:25
河北潟でヨシがどのように使われていたのか、詳しい話をお聞きしました。毎年、毎年、ヨシを使い、蓄え、手入れしていた坂野さんのお話はとてもわかりやすくて、想像しながら書きまとめることができました。ヨシが潟端の暮らしに欠かせない植物であったことが理解できます。


第11話 大切なヨシ ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

葦で葺いた屋根
当時は萱葺き(ヨシで葺いた屋根)の家が多く、ヨシは大切な材料でした。萱葺き屋根は年月が経つと、材が腐ってくるため、新しい材と取り替える必要があります。潟端では、だいたい10年に一度の割合で葺き替えましたが、屋根全体を一度に葺き替えることはなく、片側ずつ交互におこないました。棟(屋根のもっとも高いところ)を境界にして片面全体を一度に葺き替え、その5年後くらいに反対側の屋根を葺き替えます。
屋根葺きは大勢で協力する作業です。人数としては、屋根の正面側に1人と後方に1人、横側に4人くらいと、その手元で手伝いする人が4人くらい、ほかに2人ほど雑用にまわる人がいましたので、合計12~13人くらいが必要とされました。また、やり方によってはバランスが悪くなったり、長持ちせず穴が空いて朽ちたりしますので、ベテランの力を頼りにしました。とくに屋根の角部分を仕上げるのは難しく、角を葺く職人が一番大事でした。潟端には、屋根正面側の角葺きの巧者である橋本宗太郎さん、後ろ側は中村茂吉さん、久保徳次郎さんという腕のある人たちがいて、この方々の都合を聞いて屋根葺きの日取りを決めていたようです。日が決まると、その一週間ほど前から稲架木で足場を組みはじめました。
毎年、梅雨が明けると、部落の2~4軒の家で葺き替えがおこなわれます。「どこそこの家が屋根葺きするがやと。」、そんな話が伝わってくると、その親類の人と道で会った時には、「おはよう。また人手がいる時はいうてくれ。」などと、挨拶代わりに声をかけ合ったものでした。
葺き替えは1日で終わらせるつもりで早朝から段取りし、たいてい夕方遅くまでかかりました。一日がかりでするため、昼食は葺き替えする家が準備します。作業に当たる人たちは煤で汚れましたが、座敷に上がってお昼をいただきました。竈や囲炉裏から立ち上る煙で、柱や屋根材などが煤けており、とくに煙出しのあたりで作業する人は真っ黒になりました。屋根材などが煙で燻されることは悪いことではなく、防虫、防腐、防水の効果がありました。
葺き替えにより、使い古したヨシ屑がたくさん出ます。葺き替えの仕事はそれらを舟に積み込んだら終わりです。1軒の屋根片面で舟一杯分くらいの屑がでました。ヨシ屑は、畑の肥料になるので、だれも粗末にしませんでした。畑の空き地に1~3年ほど積んで置くと、どの堆肥よりも効き目があると重宝がられました。
 昭和初期の潟端の部落92軒中、萱葺きの家は50~60軒あったように思われます。その頃にも瓦で葺いた家はありました。戦後になって建て替えがすすみ、瓦屋根が増えていきました。

葦場(よしば)
ヨシは自然に生えてくる植物ですが、湖岸のヨシ原を「葦場」として各家で管理していました。屋根葺きに使うヨシは、それぞれ所有する葦場から調達します。各家では屋根葺きに備えて、毎年少しずつヨシを蓄えました。ヨシが足りない場合は、瓦屋根の家からヨシをいただくなどしました。水分のある状態では使えないので、ヨシが枯れた11月頃に刈り取ります。刈り取ったヨシは束にして、家の風雪が吹き込んでくる場所に立てて雪囲いにしました。一冬そのように使ってヨシを十分に乾燥させ、3月21日のお彼岸の頃を過ぎてから、天気の良い日を見計らって雪囲いを外し、アマ(家の二階の物置)や田んぼの空き地に積み上げて保存しました。
葦場の所有数は各家で違っており、坂野家では3面持っていました。葦場1面の単位は、地域によっても異なるようですが、潟端ではおよそ5m四方で、その横の長さは、ちょうど潟縁の田んぼの縁から、潟に向かってヨシが生えているところまでです。実際には5~7mくらいあり、舟の出入りや波風による浸食で、葦場の縁はうねっていました。少し深いところに株状に孤立するヨシもありましたが、それは管理しませんでした。葦場の境界にはむかしの杭がありましたが不明瞭で、刈り取りの時は、川で舟を動かす時に使う長さ5mほど(2間半ほど)の棹を目安に置いて作業しました。
葦場のヨシは毎年きれいに刈り取りました。それはたいしたもので、人様が刈り残したようなところも最後は全部なくなります。ヨシを刈り取る時は、葦場まで舟で行き、刈り取ったヨシを舟に積んで運びます。葦場1面分のヨシで、舟の半分ほどの量になり、2面ほど刈り取れば舟が一杯になりました。また、葦場3面あれば1軒の家で使う分が足りるほどでした。「葦場は絶えず管理しておかないと、来年ヨシが生えないぞ。」といわれ、非常に大事にしました。よく手入れされた葦場では良質なヨシがとれました。
葦場の地面は田んぼよりも少し低く、潟の水面よりも少し高い位置にありましたが、河北潟の水が増水すると、葦場まで水が上がり、そのときにゴミも一緒に流れ込んできました。潟の水が引くと、葦場にゴミが残されるので、冬も時々見廻りをして、ゴミを取り除きました。ゴミといっても現在のようなビニール類はなく、藁の腐ったものとか下駄や草履、空き瓶などです。とくに薬瓶(メモリのついた飲み薬用の空瓶)が大量に流れ着きました。ゴミ拾いの時は、刈り取りの時と同様、舟で潟に出てから葦場に入り、舟にゴミを乗せて運び出しました。燃えるゴミは川畔で乾かしてから燃やしました。
ヨシは、基本的に潟端のあたりよりも、アクスイ川より才田側(西側)のほうがりっぱでした。土質や塩分の違いからか、八田や才田側のほうがヨシの生育に適していたようです。
葦場は河北潟干拓事業・周辺排水改良事業をする時に、国が買い取りました。葦場を持っている人たちは、その時にみんな放棄しました。ただ、その頃はもう萱葺き屋根の家は5~6軒程度で、ほとんどが瓦屋根に変わっていたと思います。

そのほかの用途
現在みられるヨシは、ひ弱で風が吹いたら折れそうに見えますが、当時のヨシはりっぱで、屋根葺き以外にも活用されました。ひとつは壁の木舞(壁の下地の材料)です。良質なヨシは、壁屋さんが買いに来ましたが、潟端ではヨシを売る家は4~5軒程度で、たいていの家は売るほどの余裕はなく、自分の家の屋根葺きに使う分として大事に取っておきました。ヨシをカラムシの紐で編んだ葦簀は、縁側に立てかけて日除けに使ったり、梅干しを干すときなどに役立ちました。
また、竈や囲炉裏で火を焚くときの燃料としても重要でした。これには籾殻や藁も使われましたが、藁がすぐに燃えてしまうのに対して、乾いたヨシは5~10分燃えることから好まれました。1m以上あるヨシは燃やさずに屋根葺き用に残しました。

(「大切なヨシ」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.15-3」に掲載されています。)

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◆引水式井戸説明図
2010 / 05 / 18 ( Tue ) 20:25:47
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当時、潟端では近隣の南中條や太田にいくつかの井戸を掘らせてもらっており、それを元井戸として、部落まで導水していました。分水井戸は、潟端の部落内のグループのなかで元井戸に一番近い家のそばに設置されていました。


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分水井戸はグループで管理されていました。グループは一つの分水井戸の水量で生活できる軒数で組まれていたそうです。おそらく15~16軒とのこと。
各家の炊事場の井戸の水位はいつも一定の高さに溜まっていたらしく、巧みに作られていたことが伺えます。桶風呂に入れるためにバケツ15杯分を組みだしても、30分ほどすると元の高さに戻っていたと、坂野さんは当時を振り返りながら先人の知恵と技術に感謝する様子で話していました。

図の竹樋は、真柄竹の節を取り除いた竹管で、地下50~60cmを通してありました。真柄竹はマダケのことです。竹樋が損傷したときなどは、グループで負担協力して取り替え工事がおこなわれました。竹は節を取り除いて、約5mの長さに切断した物をつなげていきます。切り口の太い側に、細い側の竹を突っ込み、隙間に杉皮(木ハンマーで叩いてやわらかくし、シュロ縄のように綯ったもの)を丁寧に詰め込んで、その上から粘土または漆喰で塗り固め、水漏れしないように配管したとのことです。

曲がり角など角度をつける場所には、枕木が用いられました。ハンノキの枕木(幅30cm×高さ20cm×長さ30cm)


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上の図は炊事場に置かれた井戸(石桶)をあらわしたものです。井戸(石桶)の直径は約80cmとのこと。



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Ⅹ.潟端の飲み水
2010 / 05 / 09 ( Sun ) 18:16:50
簡易水道になる以前、潟端の人たちがどのようにして飲み水を得ていたのかということは、文献にもあまり残されていないようです。坂野さんの「大事なことを忘れていた。」という言葉から、潟端の飲み水についての記録作業がはじまりました。潟端に井戸があった話は以前から聞いてましたが、飲料用の井戸のことだとばかり思っていましたし、井戸というと、地下水をくみあげる井戸しかイメージできずに、ちんぷんかんぷんな質問ばかりしていました。なかなか坂野さんの話を素直に理解できずに、今回も本当に丁寧にご説明いただいて、書きまとめることができました。高台の井戸から水を引いて、各家に配水する技術は、良質な水を得ることが難しい潟端の不利な条件を、巧みな技術でカバーした潟端独自の文化だったように感じます。津幡町史や中条小史には、1832年に潟端出身の斉藤不染氏が、南中條八幡神社横から井戸水を引いて、20数戸に配水したことがわかりやすく記されています。潟端の引水式井戸のはじまりだろうと想像します。


第10話 潟端の飲み水 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

潟端の部落がある河北潟東の平野部一帯は、藩政時代以降に開墾された開田地帯で、土地の低いところです。低地にある潟端では、生活用水の確保に様々な工夫がなされていました。
地下水を汲み上げる井戸というと、一般的には飲料水の利用が想像されますが、潟端の井戸では鉄分が多く含まれた飲料に向かない赤茶色の水が出ました。そのため飲料用には、山側の高台にある井戸から導水した水が使われていました。その水は、各家の炊事場にある井戸(水を溜めるための石桶)まで引き込まれており、部落全戸にうまく供給されていました。
幼少の頃は、昔の人が飲み水で苦労した話を聞かされ、常日頃水を大切にしていました。正月には炊事場の井戸のところに鏡餅のお供えをして感謝しました。

油水
赤茶色の井戸水のことを、現在では赤水と言いますが、かつては油水と言っていました。
油水はとくに部落中程にある加賀神社より西の河北潟に近い側に多く出ました。油水が出ない井戸もあり、潟端の辺りには水脈が2つあると言われていました。また、加賀神社より東側では井戸が1つしかなく、井戸を掘っても水が出ないという言い伝えがありました。
井戸から汲み上げた油水は基本的に使い水にしました。飲料に向かないものの効用があるといわれ、油水を沸かして入浴すると、汗疹などがすぐに治りました。

元井戸から各家へ
潟端では、近隣の南中條や太田にいくつか井戸を掘らせてもらっており、それを元井戸として部落まで導水していました。南中條や太田地内では良質な井戸水が出ました。
潟端には部落中央を横切るように前川が流れています。そのため、前川より北側の家々には潟端より東北東側にある南中條から、前川より南側の家には部落南東側の太田から水が引かれていました。前川の北側にある坂野家には、南中條の高台にある元井戸から水がきていました。軟水で口当たりの良いおいしい水でした。
地中を通る竹樋で、元井戸から部落内の分水井戸へ、そして分水井戸から各家の中にある井戸まで配水されていました。分水井戸というのは、元井戸から引いてきた水を溜める貯水タンクのようなものです。当時の部落の軒数と現存する分水井戸の数から推測すると、分水井戸はおそらく部落内に5つほど存在し、1つの分水井戸からだいたい15~16軒の家に配水されていたと思われます。この分水井戸には各家へ配管するための鉛管(分水管)が取り付けられていますが、その鉛管の位置(高さ)は配管される家の井戸の高さと関係していたようで、配水量がうまく調整されていました。
水は炊事場まで引かれていたので、日常便利に使うことができました。かつては炊事場のことを"下流し"、"高流し"と言っていました。下流しは、玄関横にあるコンクリートか漆喰(石灰と砂)の土間のことで、そこに引いてきた水を溜める井戸(石桶)がありました。その隣が高流しで、下流しより一段高いその場所には竈が置かれました。高流しの窓のところには洗った物を置くことができました。
文献には、1832年潟端出身の斉藤不染氏が、飲料水の悪さや疫病が流行したことを憂えて、南中條八幡神社横から井戸水を引いて、20数戸に配水したことが記されています。先人の苦労や努力のおかげで、昭和初期の潟端の部落92軒が飲み水に困らない生活を送ることができていました。高台の元井戸から各家へ飲み水を供給する引水式の井戸は、昭和32年に簡易水道ができるまで使われていました。

水の思い出
中條小学校の近くにある南中條の中畠さん宅には、水が湧き出ている井戸が家の外にありました。水がとろとろと井戸から溢れては小川へ流れおちていました。冷たくて非常においしい井戸水でした。小学校から近いので5~6人でさーっとこの家まで走って、水を一杯のみに行ったこともありました。中條小学校にも井戸がありましたが、その井戸水は普段飲んでいる味と違って硬水のようでした。
水を持ち忘れて農作業に行ったときなどには、田んぼの水を飲むこともありました。田んぼの水面には油膜のようなものが浮いていましたので、檜笠でその油膜を避けて一口二口渇いたのどを潤しました。また、舟で潟へ遊びに行ったときに、潟の水を飲むこともありました。水が綺麗だったのか、お腹が痛くなることはありませんでした。
終戦前後の暮らしは、生活水準が低く、川で汚れを洗い流したり、鉄鍋釜の底にこびりついた煤などを川砂で洗うなどしていました。不衛生なことから川で洗うのを遠慮する人たちは、川畔の路地に洗い場をつくっていました。活発な家は川縁で洗いましたが、だんだん少なくなっていきました。

(「潟端の飲み水」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.15-2」に掲載されています。)


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◆『いこ』図
2010 / 04 / 18 ( Sun ) 18:19:38
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いこ:竹で編まれた籠

写真右側の小さい方が、1升。
左は5升サイズ。
1升、2升、3升と5升があった。

大きい5升サイズは、背負って使用したそうですが、小さいイコは腰に付けて使われたそうです。

イコは、自家製の物ではなく、漁業をしている木津(現在のかほく市木津)の人や、富山県の氷見の人から購入していたとのこと。背中にいくつものイコを背負って、売り歩いていたそうです。

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Ⅸ.潟端の漁の終わり
2010 / 04 / 09 ( Fri ) 23:57:20
むかしは河北潟にたくさん魚がいた、潟漁が盛んにおこなわれていた、鮒が最高においしかったことなど、そのような話をたくさん耳にしてきました。河北潟の周りで暮らしてきた人たちが潟の魚を食べなくなったのはいつ頃からだろう?、その理由は?素朴な疑問がありました。・・国営干拓事業により汽水湖から淡水湖へ、漁業権がなくなり、漁業がおこなわれなくなった、湖の面積が小さくなり閉鎖性水域になった、人の生活様式も変わった、そういった色々なことがありますが、でも、そのことが住民が河北潟の魚を食べなくなった理由には直接結びついていないように思い、疑問でした。今回、坂野さんに「潟端で川の魚を食べなくなったのはいつ頃から?」、「川で漁をしなくなったのはなぜ?」、色々と細かい話を伺うことができ、住民の魚離れがいつ頃おきたのか、環境と人の暮らしがどのように変わってきたのか、だいぶ理解が深まったような気がします。


第9話 潟端の漁の終わり ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

ボラの大漁、うがい漁の終幕
潟端のくらしは米づくりが主体でしたが、農閑期には川や潟で漁をして、日々の食事をまかなっていました。
湖岸に寄りついた魚を捕る“うがい漁”は、毎年8月の終わり頃に盛んでしたが、農薬が使われ出してから行われなくなりました。うがい漁を止めた1~2年くらい前に、ボラが大漁だったことがありました。
いつの年か定かではありませんが、8月29日のお祭りの前夜のことでした。一通り漁をして、「魚も捕れたし、そろそろ帰る頃やなあ。」と思っていると、ボラの群れに出会しました。ボラの大群が逃げ回って、10~20匹のボラがあっちこっちの水面から噴水のように跳ね上がるのです。跳ね上がったボラが落ちたときに、頭や背中、肩や腰などにぶち当たりました。うがいの中にも入ってきて、ゴフゴツと大きな手応えがあった感触がいまでも残っています。一度に5~6匹のボラがうがいの中に入り込んできて、1回の漁で一人15~20匹ものボラが捕まえられました。もう一回やろうと、続けて漁を行いましたが、今度は誰も捕れず、ボラの群れは通り過ぎていったようでした。大漁の喜びで捕れた魚の重さも苦にならず、その日は皆気持ちよく家路につきました。
翌朝になると、昨夜のボラ大漁の話題で隣近所盛り上がっていました。最もたくさん捕まえた人のボラの数は、25匹だったとの話でした。「ボラが一晩の漁で、一人平均17~18匹も獲れたことは覚えがない。」と、お年寄り達が驚くほどで、まったく不思議な出来事でした。漁に出ていた人数は忘れましたが、20人ほどはいましたので、一人15匹捕った計算でも、300匹のボラが獲れていたことになります。
ボラは大きさによって呼び名があり、一年ものはチョボとかロンチョ、全長25cmくらいの二年ものはイセゴイとかニサイ、体長30~40cmのものをボラ、体長50~80cmの大きなものは外洋にいて河北潟では見かけませんでした。
うがい漁では、フナやナマズ、ボラ、スズキなどが捕れましたが、最後の方には大きな蛙(ウシガエルかヒキガエル)が捕れることが増えました。蛙を食べる習慣がありませんでしたので、うがいの中に入っていても残念なもので、よく見ずに陸の方へ放り投げていました。

農薬と除草剤の普及
河北潟の近くに位置する潟端は、泥地で米づくりに適した環境ですが、農薬がない時代は、ウンカの害(稲の液を吸い枯らす)と、天候不順で発生するイモチ病に大変苦心しました。当時の稲の品種は「農林一号」(1931年・昭和6年に稲で初めて農林登録された)と呼ばれ、多収量品種で美味しいお米でした。戦後は、「越路早生」という品種が普及し、これは食味が良いうえ、病気や倒伏にも強いので喜ばれました。
越路早生と同じ頃、病虫害に対する農薬「BHC」(ベンゼンヘキサクロリド(日本の農薬登録期間:昭和24~46年。毒性・残留性があることから日本全国で販売禁止される))が入ってきました。当初は手動式の道具で農薬を撒いていました。そして、BHCを使い始めてから6~7年後くらいに除草剤が入ってきました。
除草剤が入る以前、田んぼの草で苦になったのは、ヒエ(イヌビエ)とガメザラ(ミズアオイ)でした。取っても取っても生えてくるガメザラは一番の難敵で、これが除草剤でなくなったので楽になり、田んぼがすっきりしました。また、砂が多く混じっている痩せ地の田んぼでは、ガメザラよりもミツカド(カヤツリグサ科のミズガヤツリ?)という雑草がたくさん生え、苦労の種でした。ミツカドは地下茎をのばして塊茎(そこからまた新芽を出す)をつくるので、草を抜くだけでなく、土の中に残る塊茎も取り除きました。6月の草取りのときは、腰にイコ(竹籠)を付けて作業し、その中へ入れました。イコにたまった塊茎は、他所の田んぼや水路に拡がらないよう各自で燃やしました。

潟や川の魚を食べなくなった時
農薬により虫がつかなくなり、除草剤の使用で草取りの手間が減り、その後農機具の導入で牛馬が使われなくなりました。小型耕耘機を使い始めたのは昭和32年頃です。そうして段々と米が楽に穫れるようになっていき、嬉しく感じていました。
しかし、その一方で、毒におかされた魚が現れるようになり、身に危険を感じていました。除草剤が使われ出した頃から、まず川にたくさんいたヒルが2~3年の間にいなくなりました。それまでは川に入るとすぐに、ヒルが何匹も寄ってきました。足に巻いているキハンの間から入りこまれ、よく血を吸われたものです。たくさんいたヒルが姿を消したのには驚きました。そして、メダカも見られなくなりました。メダカは大量に死んで、川の淀んだところに死骸が集まって浮かんでいたこともありました。畦に穴を空けるので厄介がられたザリガニ(アメリカザリガニ)も一時期たくさんいましたが、除草剤がよく使われるようになった頃から目立たなくなりました。結局ザリガニがいたのは終戦から2~3年の短い間だけでした。たくさんいた頃は、とくに排水用の小川にみられ、南蛮(唐辛子)が散らばっているみたいに赤いのが見えました。ライギョは終戦後にみられるようになりましたが、ライギョが増えてきた頃、フナやメダカなど他の魚が少なくなりました。そしてその後、変形したライギョが現れるようになりました。最初は、機械か何かに挟まったのだろうと思っていましたが、農薬による影響ということがわかってきました。ちょうど河北潟の干拓事業がはじまった頃と重なり、背骨が曲がったライギョとか、片目が白くなっていたり、鱗にカビが生えているようなフナなど、奇形の魚が目立ってみられました。奇形の魚は動きが鈍くて簡単に捕まえられるため、捕りに行く人もいましたが、捕ろうという気持ちになれませんでした。
気味の悪い姿をした魚の話が、人から人に広まり、残留農薬の問題も話題となって、魚を食べない方が良いという風潮が生まれました。川に魚がたくさん上がってきても、見て見ないふりをするようなもので、網を持って出ることもなくなりました。魚を捕る人はほとんどいなくなり、淡水魚を全面的に食べなくなりました。


(「潟端の漁の終わり」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.15-1 2009年」に掲載されています。)



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◆潟端の漬漁風景図
2010 / 03 / 28 ( Sun ) 09:48:44
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漬(つけ)に潜んでいる魚を捕まえるときの様子です。
漬けた粗朶木を取り上げ、魚を袋網に逃げ込ませます。
図のように網で囲うようになったのは戦後のことで、それまでは竹簾が使われていたそうです。
魚が逃げないように竹簾で囲い、前掻(網)やうろつき網で捕まえました。

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Ⅸ.潟端の川での漁「漬(つけ)」
2010 / 03 / 27 ( Sat ) 00:01:27
“漬(つけ)”というと何のことだろうと思いましたが、“粗朶漬け”というと何となくイメージがわいていました。でも、魚が付く場所という意味で、“つけ”の漢字は“付け”と思っていました。粗朶木を水に漬けて置くから“漬(つけ)”なのですね。漬の話も感心することばかりで、魚を寄せるのに随分しっかりした場所が作られていたんだなと思いました。一つの漬に40本もの粗朶木が使われていたなんて、樹林のない潟端、まして自動車もない時代、粗朶木の準備だけでも大変な時間と労力を要したことだと思います。漬の場所は、湖岸にあったのかなと、詳しくお聞きするまでは勝手に想像していたのですが、話を伺ってなるほどと思いました。潟の水が引いた時に、川に残った魚が漬に入り込んでくる、その時を狙う、、、河口部や湖岸よりも、川のほうが水深が深かったことなど、話を伺って全然イメージできていなかったことに気づきました。漬の魚を獲るのは基本的に秋から春先とのことで、それ以外の夏場などは魚の良い棲み家になっていただろうと思います。



第8話 潟端の川での漁Ⅱ「漬(つけ)」 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

今から50年ほど前まで、潟端では河北潟へ流れる川を利用して、“漬(粗朶漬)”漁をおこなっていました。川に数十本の粗朶木を漬けて、魚が潜む場所をつくり、そこに寄りついた魚を獲るというものです。漬漁は呼び方や漁法が多少異なりますが、河北潟の周辺地域にいくつか存在したようです。たとえば、大きな津幡川が流れる川尻村には、使い古した舟に粗朶木をつめこんで、その舟をひっくり返して川へ沈めておく、通称「箱漬(はこづけ)」漁がありました。

漬の場所
潟端では基本的に自分の所有する田んぼの川畔に“漬”がつくられました。田んぼの持ち家一つにだいたい平均2,3個の漬がありましたが、人に貸している家や、共同で所持する漬もありました。
漬に適した環境は、川の水位があまり変動せず、潟の水が引いたときに、淀みとして残る場所です。そして舟が通るのに支障のない川幅が広いところが選ばれました。当時の漬があった場所を思い返してみると、大フゴの川に2つ、太田川に5つ、北横川に1つ、南横川に2つ、ギ割川に2つ、百石川に5つ、オソ川に2つのおよそ19ヵ所が数えられました。そのほかアクスイ川、二百石川、五百石川にもいくつかありましたが、そこは他所の地内の人たちの漬で、地主に許可をもらって使われていました。また、荒川より北側は川尻村の土地で、この辺りにはみられませんでした。
部落の近くにも魚はたくさんいましたが、生活排水が直接流れ込むところの魚を捕って食べることはしませんでした。漬があるのも部落から少し離れた下流側です。下流でも河口近くや潟岸は、水深が浅いためできませんでした。鋤簾などで泥揚げされる川のほうが深く、潟の水が引いたときに川に残った魚が、隠れ家になる漬に入ってくるのでした。

漬のつくり方
当時の川は、現在の車道のようなもので、舟の通行路となっていました。とくに稲の取り入れ時期には舟が頻繁に往来するため、漬が通行の妨げにならないよう注意が必要でした。
川幅が1間半~2間(約2.7~3.6m)のところに漬をつくるので、舟の通り道をできるだけ空けるために、漬をつくる側の川岸を幅3尺(約1m)長さ2間半ほど削り込みました。つぎに川底がほかより少し深くなるように掘ります。そして川岸から1間くらいのところに杭を2本打ち込み、その杭と川岸の間に粗朶木を漬けていきます。粗朶木は切り口をそろえて並べ、まず10本、つぎに枝先を逆向けにして10本ほど漬けます。あと2回繰り返し、40本ほど漬けたら、刈り取ったマコモや稲藁を上に被せて日陰をつくりました。さらにその上に粗朶木を交互に2,3本のせて、漬けた粗朶木が浮き上がらないように、上から杭木で押さえ、最初に打ち込んだ2本の杭に縛って出来上がりとなります。また、削り込んだ川岸がこけないよう(崩れないよう)、粗朶を組んで護岸する人もいました。

粗朶木の樹種
川に漬ける粗朶木は細枝がたくさんでている落葉樹を使いました。樹種はエゴノキがもっとも良く、地元では“チチャノキ”とか“チャガマノキ”と呼んでいました。幹の太さは手に握れるくらいが丁度よく、長さは2間~2間半(約3.6~4.5m)ほどにそろえました。チチャノキの材質は堅いので、鎌の柄や鉈の柄にもなりました。クヌギも漬に使われることがありましたが、クヌギは枝が折れやすく、水に浸けると重たくなるので好まれませんでした。またヤナギを使う人はほとんどいませんでした。
潟端には木がほとんどありませんでしたので、山を持っている中条や太田にいる親戚を頼りにしました。漬で魚が捕れたときは、粗朶木をもらったお礼に、ピチピチ跳ねる活きの良い魚を持っていきました。

漬漁
漁期は基本的には、秋の取り入れが終わって霜が降りる頃から、3月5日頃の田祭りまででした。潟の水位が下がり、魚が漬に入ってくる頃を見計らって揚げにいきます。だいたい月に1回くらいの頻度でした。漬を揚げるときは、まず魚が逃げないように、周りを袋網などで囲みます。水中にある粗朶木を揚げるのは大変なことですが、カンコという良くできた道具がありました。カンコで粗朶木をひっかけると、跳ね上げるようにして川畔に揚げることができます。そして粗朶木に隠れていた魚が慌てて逃げ出すところを前掻で捕まえ、残った魚を袋網に追い込んだあと網を引き揚げました。穫れた魚を盥に移して、粗朶木はまた元の状態にもどしました。漬の粗朶木が、2年ほど経って古くなったら、5~6本追加したり、新しい粗朶木と取り替えてやりました。
漬で穫れる魚は大物が多く、フナは15cmくらいが10匹ほど、ナマズも50cmくらいのものが2~3匹入っているのが普通でした。終戦後は50cmくらいのライギョが入ることもあり、その時は、ほかの魚は穫れずに不漁でした。
戦時中の物がないときは、漬でとれる魚が大変有り難いものでした。昭和27年以降におこなわれた耕地整理で多くの川が車道に変わり、漬もなくなっていきました。


(「潟端の川での漁Ⅱ「漬け」」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.14-4」に掲載されています。)

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