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Ⅴ.魚が豊富な汽水湖、河北潟
2010 / 02 / 27 ( Sat ) 18:18:18
当時の潟端のイメージがだんだん膨らんできました。ここからは河北潟全体にイメージを広げていきたいと思います。このあとしばらく潟端でおこなわれた漁の話になります。


第5話 魚が豊富な汽水湖、河北潟 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

河北潟に干拓地ができ1980年(昭和55年)に大根布防潮水門が設置されるまで、河北潟には大野川から海水が流れ込んでいました。塩水と真水が混じる汽水湖で、いまと違って魚の種類が豊富でした。粟崎の北陸鉄道の鉄橋より下流の、機具橋よりもう一つ下流側に大野川逆水門がありました。日本海の水位が高くなり、稲作に被害が出るようなときに逆水門は閉められました。

逆水門での思い出話
終戦から2~3年後のこと、年が若くて兵役から免れた男連中で、逆水門の少し手前まで舟で遊びに行くことがありました。夏の夕涼みに前川の橋で、「どうや舟で河北潟を通って大野川の河口の逆水門まで、舟遊び気分で見学に行くまいか。」と、話が持ち上がったのが始まりでした。舟2艘で10人、1泊2日の予定で出発。必需品を皆で相談し、家にある物を持ち合わせました。潟端の前川から太田川を出て、河北潟の西方、大野川を目指していきました。逆水門の近くまで2時間余りかかったと記憶しています。予備知識もない行き当たりばったりの旅で、キャンプする場所を決めるのに時間がかかりました。大野川の土手の空き地で野宿することが決まり、岸辺に舟を繋いで、川に入って遊びました。
川底が砂地で固いので立つことができましたが、立っているとすぐに足裏へコチョコチョと小魚が入ってきました。足裏で押さえて捕まえてみると、川ゴリと違って口が大きいハゼ(マハゼ?)でした。逃がしてやりましたが、すぐまた別の魚が足の裏へ入ってくるのでした。水が綺麗で、水深1mくらいまで川底がよく見え、ミズガレイとかが泳ぐ姿がみえました。この辺りの川底には、茶碗がいくつも伏せてありました。ゴリを捕るために仕掛けられた物のようです。いたずらして茶碗の下に潜り込んでいる魚を捕まえたりしました。土手の株立ちしたヤナギの根元には、マッチ箱より小さいカニが2~3匹いました。空き地ではそれぞれが段取りよく、筵を並べて休む場所を作ったり、舟の帆で日陰を作ったり、家から持ってきた蚊帳を張る準備をしました。昼寝をしたり、家の畑から持ってきたネギを焼いて塩を付けて食べている者もいました。誰かが川で獲ったシジミ貝を、夜のお汁にすると言って洗っていたのも覚えています。持ち寄せた飲み物はキリンビール、三ツ矢サイダー、ラムネが数本、それを一口ぐらいずつ分けて飲んでいました。
夜になって、日没頃まで日本海へ流れていた水が、逆流して潟の方へ流れていることに気づきました。「満潮になる時間かなあ。」と、ある一人が川の水を棹でかき回したときに、皆が一斉に「水が光る!」と声を上げて驚きました。棹で水面を動かすと、水滴ほどの大きさの粒が金色にキラキラと光り輝きました。あんな光景を見たのは初めてで、心にとまる出来事でした。(夜光虫による光の様です)
蚊帳の中ではランプの明かりを頼りに、手回しハンドルでゼンマイを巻く最新型の蓄音機で、レコードを回したり、李香蘭(山口淑子)の支那の夜とか、寿々木米若の浪曲佐渡情話などを聞いて夜を過ごしました。

魚が寄りついた浅瀬の様子
河北潟は広大で、場所によって塩水の入り具合が違っていました。天候や風向きによっても変わりますが、海と通じる大野川に近いほど塩分濃度が高く、川尻より北側は塩分濃度が薄くてほぼ真水のようでした。潟端の辺りは、大野川から流れ込んでくる塩水と、津幡川や山手の方から流れ込んでくる真水がぶつかる所で、ボラ、ウナギ、ハネ(スズキ)、ゴリ、サヨリ、ライギョ、アマサギ(ワカサギ)、ウグイ、フナ、ナマズ、メダカなど、海の魚も淡水にいる魚もみられました。
河北潟の東岸は水深が浅くて、岸から100m以上先まで50cmほどしか水位差がなく、歩くことができました。その浅瀬には、ニラモ(アマモと思われる)や金魚藻のようなものとか、水面の上に葉が漂うのとか、色々な種類の水藻(水生植物)がたくさん生えていました。水藻が生えているのは岸から100~150mくらいまでで、その先は水深が急に深くなっていました。潟岸には葦場があり、その葦場の水際から10~30m先に、銭五の杭(銭屋五兵衛の埋め立て事業により作られた杭)がありました。銭五の杭は1mほどの間隔で、湖岸沿いにずっと続いており、杭の辺りはとくに水藻が茂っていました。夏場は水藻がよく繁茂し、そこに魚が潜んでいました。潟端の辺りの潟の東岸は魚が寄ってくる条件の良い場所だったようです。

潟端の漁
米づくりが主体の潟端では、八田や内灘のような本格的な漁は行いませんでしたが、数名から二十数名が協力して行う小規模な漁がいくつかありました。なかでも「うがい」という漁は、浅瀬に寄りついた魚を巧みに捕る方法です。毎年、潟に生い茂った藻が切れる頃の8月の終わりに行われました。


(「魚が豊富な汽水湖、河北潟」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.14-1 2008年」に掲載されています。)
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テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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