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XⅢ.水草のある川
2010 / 09 / 09 ( Thu ) 22:41:08
川に生えていた水草の話のまとめ作業に取りかかった時、ようやくここまで来ることができたと内心思いました。潟端の辺りにはどのような水草が生えていたのか、最初からとても興味のある部分だったからです。第12話をまとめるまで色々と話を聞いてきましたので、だいぶ当時の潟端を想像できるようになったと思っていましたが、お聞きしないと見えてこないことがまだまだたくさんあります。川によって、こうも状態が違っているとは、驚きました。


第13話 水草のある川 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

潟端の農村風景は江戸時代より受け継がれてきたものですが、終戦後二度に渡っておこなわれた耕地整理で大きく変わりました(1952年頃と1966年頃)。一度目のときはほとんど人力でおこなわれ、舟の通る川はまだ残されていました。二度目のときにブルドーザーなどが出動し、川や湖岸の様相が一変しました。潟端の田園風景はまさに水郷でしたが、曲がった川や田んぼも真っ直ぐになり、用排水路もコンクリート造りとなって、数少ない川畔の木や、素足で歩いた道もなくなりました。いまでは当時の記憶を思い出せる方達も少なくなっています。

色々な川(水路)
潟端には大きな河川はないものの、山側から潟に向かって流れるいくつかの川(排水路)は、舟一艘が楽にすれ違えるほどの幅がありました。地元で中條川(下流側を十二号の川と呼ぶ)、荒川(十五号の川)、太田川、ギ割川、百石川と呼んでいる川です。いずれも部落と潟の間を北から南に流れる横川でつながっていました。このほかにも十四号の川、アクスイ川などがありました。だいたい9尺~10尺(3mほど)の川幅でしたが、太田川はとくに幅広くて水深があり、潟へ舟で出るときはこの川を通るのが普通でした。ここは舟の通行路としてよく手入れされていましたので、水草がほとんどありませんでした。たいていの川は膝か太股くらいまでの水深で、夏には水草が繁茂しました。百石川は腰の辺りまで水位があり、川幅の割には深い川でした。稀に大人の胸くらいまである川もありました。深い川のところは藻がたくさん生え、水が透きとおって冷たい感じがしました。
潟端の用水は、森下川の上流から津幡川へつながる河原市用水からきていましたが、春耕には水不足となりましたので、潟端の田んぼにはおもに中條川と太田川からポンプで揚水した水が使われました。そのため田んぼに水を回す時期には、中條川や太田川の水が無くなることもありました。
隣の川尻には、津幡川をせき止めて、田んぼへ水を流している川尻用水路がありました。幅2m弱ほどの水路で、周辺よりも高い位置を流れていました。

川の管理のしくみ
舟の通路、排水路、用水路の機能を持つ川は、地元で大切に管理されてきました。川の泥浚いや、藻引き(川に繁茂する水草の除去)などは、部分的には田んぼの関係者がしていましたが、年3回ほどは「総人夫」で部落全員総出となって作業しました。「人夫」とは、部落で人手を必要とする作業に出る人、いわゆる日雇い労働者でしたが、行事を指す言葉でもありました。「今日は人夫の日や。」というと、川で作業する日でした。人夫は各班に1人とか2人が交代で割り当てられ、藻引きに限らず、土嚢をつめて馬が通れる小道を作ったり、水を通すための整備をしたりと、大体のことが人夫でまかなわれていました。
部落全体で取り組む総人夫は、毎年3月5日頃と、お盆の前後、そのほかに1回の年3回はありました。このような年中行事は、毎年1月の初寄席(村の総会)において、およその日取りと予算が決められます。初寄席には部落全員が出席し、部落の区長さん、実行組合長、歩き(連絡係)、各班の班長さんといった新年度の役員が顔を合わせます。当時は部落戸数が8班に区分されていました。
1回目の総人夫は、田植えの準備・段取りとして、毎年「田祭り」に合わせて3月5日頃におこなわれました。田植え前の用排水路の掃除がおもな仕事で、川に溜まった泥を鋤簾で浚います。取り除いた泥は、田んぼに客土しました。貝や藻が混じる川の泥はとても良い肥料になりました。
お盆前かお盆過ぎには、前川の川掘りがおこなわれました。稲刈り前の準備として、舟の運航の妨げになるものを除去します。川底を深く掘り下げる必要があるので、前川の水をせき止めて水をくみ出し、川底が見える状態で作業しました。各自が責任を持って、自宅前の川底に溜まった泥を掘ります。泥上げを十分にしないと、川上の家まで舟を通せなくなるので、支障を来さないよう注意しました。掘り取った泥はそのまま道路の端にしばらく置いて乾かし、稲刈りを終えた田んぼに入れました。空き地に積み置きして必要時に使う人もいました。
川の藻引きも、年に一度は総人夫でおこなわれました。20~30人での作業になります。総人夫以外でも、藻引きは5月からお盆くらいまでの間に2~3回、関係者が必要に応じて自主的におこないました。また、田植えや稲刈り時期など人手のいる時は、他の地域から人夫が応援に来ることもありました。

水草の記憶
たいていの川には、フサモやエビモなどの沈水性の藻がありました。エビモが繁っているところには、夏場にゴリがたくさんいるので、ゴリ捕りのポイントにしていました。黄色い花を咲かせるアサザは、川底が砂質のところにたくさんみられましたが、潟端ではそうした場所は限られていました。ヒエのムシロと呼んでいた水草は田んぼにあって、引っ張ると途中でちぎれて残るので取り除くのに苦労しました(ヒルムシロ属の一種)。
とろろ昆布みたいな粘りのあるジュンサイのような水草もありました。それは友達に教えてもらって、太田川の上の支流の良場という場所(川がカーブしたところの上流側)にあることを知りました。わずかな範囲でしたが、そこは胸の深さくらいある細い川で、川底は砂地で固く、水がとても綺麗でした。ほかの川ではあまり見かけない、気持ちの悪い腹の赤いイモリが何匹もいましたが、魚はメダカとかモロコくらいと少し変わった場所でした。ジュンサイは仏教の精進料理で貴重なものとされ、滅多に食べることはありませんでしたが、小学校の頃に親を喜ばせようと採って帰ったことがありました。アクスイ川の河口から100mほど上がったところには、ミズオオバコが水際に生えいたことがありました。アクスイ川は普段は穏やかですが、雨が降ると水かさが増して流れが速くなる川でした。ミズオオバコは耕地整理されてからも少しの間は残っていたように思います。
川にはヒシもありました。ヒシについては次号に詳しく掲載する予定です。

(「水草のある川」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.16-1 2010年」に掲載されています。)

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テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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