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XⅤ.田螺拾い、シジミ採り
2011 / 03 / 09 ( Wed ) 08:58:34
シジミを採っていた話は、当時の河北潟の話題になると、よく出てくる話で、坂野さんからもよくお聞きしました。タニシやイシガイの類の話はあまり聞いたことがなく、それぞれの貝がどのような場所でとれたのか、どのようにして食べたのか、興味深い内容で詳しくお聞きすることができました。この聞き取り作業で印象強く残っていることは、タニシが田んぼのどういった場所にどれくらいいたかなど、タニシがいた様子を問いかけたときのことです。なんといったらいいかとしばらく悩まれたのち、「田んぼにばらまいたようにいた。」、これが一番近いかなといって表現されました。この表現はその様子を知らないわたしには思いつかないことで、なるほどーと「ばらまいたように」と聞いたときに自分でもイメージがひろがって、何度もうなずいてしまったことを思い出します。


第15話 田螺拾い、シジミ採り ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

河北潟が干拓される以前の潟は、塩水の混じる汽水湖でしたので、カレイやサヨリなど海の魚もよく見かけました。魚貝類が豊富で、潟縁ではシジミ貝がたくさん採れました。潟端には河北潟に通じる川が数本流れていましたが、その河口部の潟の中を歩くと、無数のシジミが足の裏に当たり、シジミの上を歩くようなところもありました。シジミはそうした河口部の砂地のところに集まっていましたが、川には黒色の大きな貝が泥の中にいました。ドロガイまたは淡貝とかカラス貝と呼ばれ(イシガイの類)、川のどこにでもいる様子で前掻き(川底に潜む魚などを獲る漁具)で良く採れました。大きいので食べ応えがありましたが、食べ過ぎるとお腹が緩むので、3~5つ以上食べるなといわれました。田んぼにはタニシがばらまいた様にいました。

田螺拾い
稲刈りを終え、脱穀作業も終えた10月頃になると、近所の主婦達が数人集まって田螺拾いに出かけたものでした。普段から仲良くしているメンバーが2~3人、多い時には5人くらいで相談し合って、天気の良い日を選んで行きます。あまり目立たないよう密かに行動していました。行き先は部落北側の田んぼが中心で、通称フゴ地帯(潟から切り離されてできた沼地のあった場所。周辺より地盤の低い湿田地帯)の田んぼの川寄りが狙い目でした。川(用排水路)ももちろんです。「田螺は塩分にとくに弱くて棲むことができない。」と、古老などから聞いていましたので、潟に近い側の田んぼには行きませんでした。潟端より北の、中條フゴから太郎フゴ、旧井ノ上村の五反田地区、中須賀地区まで遠出したようでした。
タニシは粘土質の田んぼには溢れるようにいました。砂がかったところには見られず、粘土質で泥深い太郎フゴにはとくにたくさんいたようです。また、水路にもいましたが、多くは田んぼに上がってきました。田螺拾いは稲刈り後の暖かい間だけでした。寒くなると一斉に泥に潜って姿を見せなくなりました。
田螺拾いをする女性の格好は、もんぺに脚絆、割烹前掛け、綿入れのベストをして、腕抜きを付け、頭には手拭い、その上に頭巾をして、さらに笠をかぶりました。左手には拾った田螺を入れるイコ(2升入り)を持ち、右手で田螺を拾いました。イコに溜まった田螺は叺(肥料袋。肥料を使い終えた後、川水で洗って乾かして再利用した。)や「いずみ」(縄で編んだバック)に入れました。
タニシは、現在水路などでみられるタニシよりも大きくて丸みのある貝でした。ただ当時も大きいタニシと小さいタニシがいましたが、食べ応えのある大きいタニシだけを採っていました。小さいものはやがて大きくなると思っていました。ザリガニが増え、農薬を撒かれたりしたことで、タニシが減ったような印象がありました。今では食べる人もいません。

田螺の調理
持ち帰ったタニシは、自宅の窯に大きな鍋を掛けて、何回にも分けてたくさん茹でます。天気の悪い時に一気にする作業でした。棒で混ぜながら茹でますが、混ぜていると貝と貝があたってジャラジャラと音がするのでした。茹で上がると、固く閉じていた蓋がとれ、身の部分を通し針を使って取り出します。腸は殻の中に残しました。小学生の子供でもできるので、親の手伝いをしたものでした。貝殻と腸は空き地や畑の隅に穴を掘って埋めました。
取り出したタニシの身の部分を、今度は藁灰を入れた桶の中で水洗いします。わたのかすや滑りをとるために、足で踏み洗いし、藁灰で滑りを十分に取り除きます。そうすると、アクが取れて美しい黄白色になります。綺麗になった身を水の中で冷まして出来上がりです。これを食品として近江町などに売りに行きました。タニシは他に業者がいなかったようで高値で売れました。当時は女性の副業になるような仕事も少なく、タニシの処理作業は良い小遣い銭稼ぎになりました。出来上がったタニシの身を金沢の近江町市場へ持っていくと、店の人が予想以上の高値で買ってくれたようです。帰る時にもまた持ってきて欲しいと言われたようで、嬉しくて「又来るから頼むね。」と、言葉を交わした思い出話も聞いています。
余ったタニシは、豆と煮付けて食べました。売るほどの量が採れなかった時も自家用にしました。豆とコンニャクを小さく刻んで混ぜた煮物は美食でした。

シジミと淡貝
シジミは年中採れるものでしたが、潟の水が温む7月~9月頃しか採りに行きませんでした。シジミを採りに行くのは、もっぱら女性や子供達の仕事でした。足の裏でこすりながら寄せ集め、手を入れて拾い上げます。現在川で見られるようなマシジミと違って、黒色の大粒の貝でした。百石川とアクスイ川の河口の潟にいるシジミは、とくに大粒で綺麗な黒色をしていましたが、部落の境界付近に位置するのであまり採りに行きませんでした。黒色のシジミの貝の裏側は、紫味のある紺色をして綺麗でした。
シジミはタニシよりも安値でしたので、潟端ではシジミを売りに行く人はほとんどおらず、たくさん採った時は近所の人に配りました。また、淡貝は売れませんでした。淡貝もタニシと同じ調理方法で、身を出してアク抜きしたものを醤油などで煮付けて食べましたが、お腹が緩むので少量で十分でした。

(「田螺拾い、シジミ採り」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.16-3」に掲載されています。)

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テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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