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Ⅸ.潟端の漁の終わり
2010 / 04 / 09 ( Fri ) 23:57:20
むかしは河北潟にたくさん魚がいた、潟漁が盛んにおこなわれていた、鮒が最高においしかったことなど、そのような話をたくさん耳にしてきました。河北潟の周りで暮らしてきた人たちが潟の魚を食べなくなったのはいつ頃からだろう?、その理由は?素朴な疑問がありました。・・国営干拓事業により汽水湖から淡水湖へ、漁業権がなくなり、漁業がおこなわれなくなった、湖の面積が小さくなり閉鎖性水域になった、人の生活様式も変わった、そういった色々なことがありますが、でも、そのことが住民が河北潟の魚を食べなくなった理由には直接結びついていないように思い、疑問でした。今回、坂野さんに「潟端で川の魚を食べなくなったのはいつ頃から?」、「川で漁をしなくなったのはなぜ?」、色々と細かい話を伺うことができ、住民の魚離れがいつ頃おきたのか、環境と人の暮らしがどのように変わってきたのか、だいぶ理解が深まったような気がします。


第9話 潟端の漁の終わり ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

ボラの大漁、うがい漁の終幕
潟端のくらしは米づくりが主体でしたが、農閑期には川や潟で漁をして、日々の食事をまかなっていました。
湖岸に寄りついた魚を捕る“うがい漁”は、毎年8月の終わり頃に盛んでしたが、農薬が使われ出してから行われなくなりました。うがい漁を止めた1~2年くらい前に、ボラが大漁だったことがありました。
いつの年か定かではありませんが、8月29日のお祭りの前夜のことでした。一通り漁をして、「魚も捕れたし、そろそろ帰る頃やなあ。」と思っていると、ボラの群れに出会しました。ボラの大群が逃げ回って、10~20匹のボラがあっちこっちの水面から噴水のように跳ね上がるのです。跳ね上がったボラが落ちたときに、頭や背中、肩や腰などにぶち当たりました。うがいの中にも入ってきて、ゴフゴツと大きな手応えがあった感触がいまでも残っています。一度に5~6匹のボラがうがいの中に入り込んできて、1回の漁で一人15~20匹ものボラが捕まえられました。もう一回やろうと、続けて漁を行いましたが、今度は誰も捕れず、ボラの群れは通り過ぎていったようでした。大漁の喜びで捕れた魚の重さも苦にならず、その日は皆気持ちよく家路につきました。
翌朝になると、昨夜のボラ大漁の話題で隣近所盛り上がっていました。最もたくさん捕まえた人のボラの数は、25匹だったとの話でした。「ボラが一晩の漁で、一人平均17~18匹も獲れたことは覚えがない。」と、お年寄り達が驚くほどで、まったく不思議な出来事でした。漁に出ていた人数は忘れましたが、20人ほどはいましたので、一人15匹捕った計算でも、300匹のボラが獲れていたことになります。
ボラは大きさによって呼び名があり、一年ものはチョボとかロンチョ、全長25cmくらいの二年ものはイセゴイとかニサイ、体長30~40cmのものをボラ、体長50~80cmの大きなものは外洋にいて河北潟では見かけませんでした。
うがい漁では、フナやナマズ、ボラ、スズキなどが捕れましたが、最後の方には大きな蛙(ウシガエルかヒキガエル)が捕れることが増えました。蛙を食べる習慣がありませんでしたので、うがいの中に入っていても残念なもので、よく見ずに陸の方へ放り投げていました。

農薬と除草剤の普及
河北潟の近くに位置する潟端は、泥地で米づくりに適した環境ですが、農薬がない時代は、ウンカの害(稲の液を吸い枯らす)と、天候不順で発生するイモチ病に大変苦心しました。当時の稲の品種は「農林一号」(1931年・昭和6年に稲で初めて農林登録された)と呼ばれ、多収量品種で美味しいお米でした。戦後は、「越路早生」という品種が普及し、これは食味が良いうえ、病気や倒伏にも強いので喜ばれました。
越路早生と同じ頃、病虫害に対する農薬「BHC」(ベンゼンヘキサクロリド(日本の農薬登録期間:昭和24~46年。毒性・残留性があることから日本全国で販売禁止される))が入ってきました。当初は手動式の道具で農薬を撒いていました。そして、BHCを使い始めてから6~7年後くらいに除草剤が入ってきました。
除草剤が入る以前、田んぼの草で苦になったのは、ヒエ(イヌビエ)とガメザラ(ミズアオイ)でした。取っても取っても生えてくるガメザラは一番の難敵で、これが除草剤でなくなったので楽になり、田んぼがすっきりしました。また、砂が多く混じっている痩せ地の田んぼでは、ガメザラよりもミツカド(カヤツリグサ科のミズガヤツリ?)という雑草がたくさん生え、苦労の種でした。ミツカドは地下茎をのばして塊茎(そこからまた新芽を出す)をつくるので、草を抜くだけでなく、土の中に残る塊茎も取り除きました。6月の草取りのときは、腰にイコ(竹籠)を付けて作業し、その中へ入れました。イコにたまった塊茎は、他所の田んぼや水路に拡がらないよう各自で燃やしました。

潟や川の魚を食べなくなった時
農薬により虫がつかなくなり、除草剤の使用で草取りの手間が減り、その後農機具の導入で牛馬が使われなくなりました。小型耕耘機を使い始めたのは昭和32年頃です。そうして段々と米が楽に穫れるようになっていき、嬉しく感じていました。
しかし、その一方で、毒におかされた魚が現れるようになり、身に危険を感じていました。除草剤が使われ出した頃から、まず川にたくさんいたヒルが2~3年の間にいなくなりました。それまでは川に入るとすぐに、ヒルが何匹も寄ってきました。足に巻いているキハンの間から入りこまれ、よく血を吸われたものです。たくさんいたヒルが姿を消したのには驚きました。そして、メダカも見られなくなりました。メダカは大量に死んで、川の淀んだところに死骸が集まって浮かんでいたこともありました。畦に穴を空けるので厄介がられたザリガニ(アメリカザリガニ)も一時期たくさんいましたが、除草剤がよく使われるようになった頃から目立たなくなりました。結局ザリガニがいたのは終戦から2~3年の短い間だけでした。たくさんいた頃は、とくに排水用の小川にみられ、南蛮(唐辛子)が散らばっているみたいに赤いのが見えました。ライギョは終戦後にみられるようになりましたが、ライギョが増えてきた頃、フナやメダカなど他の魚が少なくなりました。そしてその後、変形したライギョが現れるようになりました。最初は、機械か何かに挟まったのだろうと思っていましたが、農薬による影響ということがわかってきました。ちょうど河北潟の干拓事業がはじまった頃と重なり、背骨が曲がったライギョとか、片目が白くなっていたり、鱗にカビが生えているようなフナなど、奇形の魚が目立ってみられました。奇形の魚は動きが鈍くて簡単に捕まえられるため、捕りに行く人もいましたが、捕ろうという気持ちになれませんでした。
気味の悪い姿をした魚の話が、人から人に広まり、残留農薬の問題も話題となって、魚を食べない方が良いという風潮が生まれました。川に魚がたくさん上がってきても、見て見ないふりをするようなもので、網を持って出ることもなくなりました。魚を捕る人はほとんどいなくなり、淡水魚を全面的に食べなくなりました。


(「潟端の漁の終わり」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.15-1 2009年」に掲載されています。)



テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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