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Ⅹ.潟端の飲み水
2010 / 05 / 09 ( Sun ) 18:16:50
簡易水道になる以前、潟端の人たちがどのようにして飲み水を得ていたのかということは、文献にもあまり残されていないようです。坂野さんの「大事なことを忘れていた。」という言葉から、潟端の飲み水についての記録作業がはじまりました。潟端に井戸があった話は以前から聞いてましたが、飲料用の井戸のことだとばかり思っていましたし、井戸というと、地下水をくみあげる井戸しかイメージできずに、ちんぷんかんぷんな質問ばかりしていました。なかなか坂野さんの話を素直に理解できずに、今回も本当に丁寧にご説明いただいて、書きまとめることができました。高台の井戸から水を引いて、各家に配水する技術は、良質な水を得ることが難しい潟端の不利な条件を、巧みな技術でカバーした潟端独自の文化だったように感じます。津幡町史や中条小史には、1832年に潟端出身の斉藤不染氏が、南中條八幡神社横から井戸水を引いて、20数戸に配水したことがわかりやすく記されています。潟端の引水式井戸のはじまりだろうと想像します。


第10話 潟端の飲み水 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

潟端の部落がある河北潟東の平野部一帯は、藩政時代以降に開墾された開田地帯で、土地の低いところです。低地にある潟端では、生活用水の確保に様々な工夫がなされていました。
地下水を汲み上げる井戸というと、一般的には飲料水の利用が想像されますが、潟端の井戸では鉄分が多く含まれた飲料に向かない赤茶色の水が出ました。そのため飲料用には、山側の高台にある井戸から導水した水が使われていました。その水は、各家の炊事場にある井戸(水を溜めるための石桶)まで引き込まれており、部落全戸にうまく供給されていました。
幼少の頃は、昔の人が飲み水で苦労した話を聞かされ、常日頃水を大切にしていました。正月には炊事場の井戸のところに鏡餅のお供えをして感謝しました。

油水
赤茶色の井戸水のことを、現在では赤水と言いますが、かつては油水と言っていました。
油水はとくに部落中程にある加賀神社より西の河北潟に近い側に多く出ました。油水が出ない井戸もあり、潟端の辺りには水脈が2つあると言われていました。また、加賀神社より東側では井戸が1つしかなく、井戸を掘っても水が出ないという言い伝えがありました。
井戸から汲み上げた油水は基本的に使い水にしました。飲料に向かないものの効用があるといわれ、油水を沸かして入浴すると、汗疹などがすぐに治りました。

元井戸から各家へ
潟端では、近隣の南中條や太田にいくつか井戸を掘らせてもらっており、それを元井戸として部落まで導水していました。南中條や太田地内では良質な井戸水が出ました。
潟端には部落中央を横切るように前川が流れています。そのため、前川より北側の家々には潟端より東北東側にある南中條から、前川より南側の家には部落南東側の太田から水が引かれていました。前川の北側にある坂野家には、南中條の高台にある元井戸から水がきていました。軟水で口当たりの良いおいしい水でした。
地中を通る竹樋で、元井戸から部落内の分水井戸へ、そして分水井戸から各家の中にある井戸まで配水されていました。分水井戸というのは、元井戸から引いてきた水を溜める貯水タンクのようなものです。当時の部落の軒数と現存する分水井戸の数から推測すると、分水井戸はおそらく部落内に5つほど存在し、1つの分水井戸からだいたい15~16軒の家に配水されていたと思われます。この分水井戸には各家へ配管するための鉛管(分水管)が取り付けられていますが、その鉛管の位置(高さ)は配管される家の井戸の高さと関係していたようで、配水量がうまく調整されていました。
水は炊事場まで引かれていたので、日常便利に使うことができました。かつては炊事場のことを"下流し"、"高流し"と言っていました。下流しは、玄関横にあるコンクリートか漆喰(石灰と砂)の土間のことで、そこに引いてきた水を溜める井戸(石桶)がありました。その隣が高流しで、下流しより一段高いその場所には竈が置かれました。高流しの窓のところには洗った物を置くことができました。
文献には、1832年潟端出身の斉藤不染氏が、飲料水の悪さや疫病が流行したことを憂えて、南中條八幡神社横から井戸水を引いて、20数戸に配水したことが記されています。先人の苦労や努力のおかげで、昭和初期の潟端の部落92軒が飲み水に困らない生活を送ることができていました。高台の元井戸から各家へ飲み水を供給する引水式の井戸は、昭和32年に簡易水道ができるまで使われていました。

水の思い出
中條小学校の近くにある南中條の中畠さん宅には、水が湧き出ている井戸が家の外にありました。水がとろとろと井戸から溢れては小川へ流れおちていました。冷たくて非常においしい井戸水でした。小学校から近いので5~6人でさーっとこの家まで走って、水を一杯のみに行ったこともありました。中條小学校にも井戸がありましたが、その井戸水は普段飲んでいる味と違って硬水のようでした。
水を持ち忘れて農作業に行ったときなどには、田んぼの水を飲むこともありました。田んぼの水面には油膜のようなものが浮いていましたので、檜笠でその油膜を避けて一口二口渇いたのどを潤しました。また、舟で潟へ遊びに行ったときに、潟の水を飲むこともありました。水が綺麗だったのか、お腹が痛くなることはありませんでした。
終戦前後の暮らしは、生活水準が低く、川で汚れを洗い流したり、鉄鍋釜の底にこびりついた煤などを川砂で洗うなどしていました。不衛生なことから川で洗うのを遠慮する人たちは、川畔の路地に洗い場をつくっていました。活発な家は川縁で洗いましたが、だんだん少なくなっていきました。

(「潟端の飲み水」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.15-2」に掲載されています。)


テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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