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XⅠ.大切なヨシ
2010 / 06 / 08 ( Tue ) 15:37:25
河北潟でヨシがどのように使われていたのか、詳しい話をお聞きしました。毎年、毎年、ヨシを使い、蓄え、手入れしていた坂野さんのお話はとてもわかりやすくて、想像しながら書きまとめることができました。ヨシが潟端の暮らしに欠かせない植物であったことが理解できます。


第11話 大切なヨシ ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

葦で葺いた屋根
当時は萱葺き(ヨシで葺いた屋根)の家が多く、ヨシは大切な材料でした。萱葺き屋根は年月が経つと、材が腐ってくるため、新しい材と取り替える必要があります。潟端では、だいたい10年に一度の割合で葺き替えましたが、屋根全体を一度に葺き替えることはなく、片側ずつ交互におこないました。棟(屋根のもっとも高いところ)を境界にして片面全体を一度に葺き替え、その5年後くらいに反対側の屋根を葺き替えます。
屋根葺きは大勢で協力する作業です。人数としては、屋根の正面側に1人と後方に1人、横側に4人くらいと、その手元で手伝いする人が4人くらい、ほかに2人ほど雑用にまわる人がいましたので、合計12~13人くらいが必要とされました。また、やり方によってはバランスが悪くなったり、長持ちせず穴が空いて朽ちたりしますので、ベテランの力を頼りにしました。とくに屋根の角部分を仕上げるのは難しく、角を葺く職人が一番大事でした。潟端には、屋根正面側の角葺きの巧者である橋本宗太郎さん、後ろ側は中村茂吉さん、久保徳次郎さんという腕のある人たちがいて、この方々の都合を聞いて屋根葺きの日取りを決めていたようです。日が決まると、その一週間ほど前から稲架木で足場を組みはじめました。
毎年、梅雨が明けると、部落の2~4軒の家で葺き替えがおこなわれます。「どこそこの家が屋根葺きするがやと。」、そんな話が伝わってくると、その親類の人と道で会った時には、「おはよう。また人手がいる時はいうてくれ。」などと、挨拶代わりに声をかけ合ったものでした。
葺き替えは1日で終わらせるつもりで早朝から段取りし、たいてい夕方遅くまでかかりました。一日がかりでするため、昼食は葺き替えする家が準備します。作業に当たる人たちは煤で汚れましたが、座敷に上がってお昼をいただきました。竈や囲炉裏から立ち上る煙で、柱や屋根材などが煤けており、とくに煙出しのあたりで作業する人は真っ黒になりました。屋根材などが煙で燻されることは悪いことではなく、防虫、防腐、防水の効果がありました。
葺き替えにより、使い古したヨシ屑がたくさん出ます。葺き替えの仕事はそれらを舟に積み込んだら終わりです。1軒の屋根片面で舟一杯分くらいの屑がでました。ヨシ屑は、畑の肥料になるので、だれも粗末にしませんでした。畑の空き地に1~3年ほど積んで置くと、どの堆肥よりも効き目があると重宝がられました。
 昭和初期の潟端の部落92軒中、萱葺きの家は50~60軒あったように思われます。その頃にも瓦で葺いた家はありました。戦後になって建て替えがすすみ、瓦屋根が増えていきました。

葦場(よしば)
ヨシは自然に生えてくる植物ですが、湖岸のヨシ原を「葦場」として各家で管理していました。屋根葺きに使うヨシは、それぞれ所有する葦場から調達します。各家では屋根葺きに備えて、毎年少しずつヨシを蓄えました。ヨシが足りない場合は、瓦屋根の家からヨシをいただくなどしました。水分のある状態では使えないので、ヨシが枯れた11月頃に刈り取ります。刈り取ったヨシは束にして、家の風雪が吹き込んでくる場所に立てて雪囲いにしました。一冬そのように使ってヨシを十分に乾燥させ、3月21日のお彼岸の頃を過ぎてから、天気の良い日を見計らって雪囲いを外し、アマ(家の二階の物置)や田んぼの空き地に積み上げて保存しました。
葦場の所有数は各家で違っており、坂野家では3面持っていました。葦場1面の単位は、地域によっても異なるようですが、潟端ではおよそ5m四方で、その横の長さは、ちょうど潟縁の田んぼの縁から、潟に向かってヨシが生えているところまでです。実際には5~7mくらいあり、舟の出入りや波風による浸食で、葦場の縁はうねっていました。少し深いところに株状に孤立するヨシもありましたが、それは管理しませんでした。葦場の境界にはむかしの杭がありましたが不明瞭で、刈り取りの時は、川で舟を動かす時に使う長さ5mほど(2間半ほど)の棹を目安に置いて作業しました。
葦場のヨシは毎年きれいに刈り取りました。それはたいしたもので、人様が刈り残したようなところも最後は全部なくなります。ヨシを刈り取る時は、葦場まで舟で行き、刈り取ったヨシを舟に積んで運びます。葦場1面分のヨシで、舟の半分ほどの量になり、2面ほど刈り取れば舟が一杯になりました。また、葦場3面あれば1軒の家で使う分が足りるほどでした。「葦場は絶えず管理しておかないと、来年ヨシが生えないぞ。」といわれ、非常に大事にしました。よく手入れされた葦場では良質なヨシがとれました。
葦場の地面は田んぼよりも少し低く、潟の水面よりも少し高い位置にありましたが、河北潟の水が増水すると、葦場まで水が上がり、そのときにゴミも一緒に流れ込んできました。潟の水が引くと、葦場にゴミが残されるので、冬も時々見廻りをして、ゴミを取り除きました。ゴミといっても現在のようなビニール類はなく、藁の腐ったものとか下駄や草履、空き瓶などです。とくに薬瓶(メモリのついた飲み薬用の空瓶)が大量に流れ着きました。ゴミ拾いの時は、刈り取りの時と同様、舟で潟に出てから葦場に入り、舟にゴミを乗せて運び出しました。燃えるゴミは川畔で乾かしてから燃やしました。
ヨシは、基本的に潟端のあたりよりも、アクスイ川より才田側(西側)のほうがりっぱでした。土質や塩分の違いからか、八田や才田側のほうがヨシの生育に適していたようです。
葦場は河北潟干拓事業・周辺排水改良事業をする時に、国が買い取りました。葦場を持っている人たちは、その時にみんな放棄しました。ただ、その頃はもう萱葺き屋根の家は5~6軒程度で、ほとんどが瓦屋根に変わっていたと思います。

そのほかの用途
現在みられるヨシは、ひ弱で風が吹いたら折れそうに見えますが、当時のヨシはりっぱで、屋根葺き以外にも活用されました。ひとつは壁の木舞(壁の下地の材料)です。良質なヨシは、壁屋さんが買いに来ましたが、潟端ではヨシを売る家は4~5軒程度で、たいていの家は売るほどの余裕はなく、自分の家の屋根葺きに使う分として大事に取っておきました。ヨシをカラムシの紐で編んだ葦簀は、縁側に立てかけて日除けに使ったり、梅干しを干すときなどに役立ちました。
また、竈や囲炉裏で火を焚くときの燃料としても重要でした。これには籾殻や藁も使われましたが、藁がすぐに燃えてしまうのに対して、乾いたヨシは5~10分燃えることから好まれました。1m以上あるヨシは燃やさずに屋根葺き用に残しました。

(「大切なヨシ」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.15-3」に掲載されています。)

テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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