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XⅡ.自然を読む力
2010 / 07 / 09 ( Fri ) 19:08:23
自然を読む力(観る力)がなければ、自然環境を保全しようにもどうにも結びつかない、だから環境とそこにいる生物に目を向けることが大事だと思います。また、普段の生活で野外に出ることさえ少ない現代人にとって、いろいろなところで開催されている、いわゆる「自然観察会」は、自然を見る目を養う場としてとても重要であるように感じます。
河北潟を巡った物々交換の話は、物々交換ということだけに絞って話を書きまとめたいと考えていました。でも聞き書きをしているうちに、物々交換と一緒にでてくる話題を無理に切り離すこともないように思い、自然を読む力としてまとめるにいたりました。文章を書く能力があれば、これらの結びつきがわかるようなかたちで上手く表現されるのでしょうが、できていません。また、物々交換についてはもっと深い内容で、もっと色んな人から情報を集めることができたらと思っています。
・・いまは無くなった?、海鳴り、竜巻の話、不思議です。


第12話 自然を読む力 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

河北潟を巡った物々交換
潟端は藩政時代に開村した部落で、河北潟の東縁を開墾してできた水田地帯にあります。潟端の暮らしは稲作が基本でした。逆に河北潟の西側、日本海に面した砂丘地では稲作は難しく、漁業が盛んでした。そのため、潟端など河北潟の東寄りにある部落と、旧内灘村の大根布、宮坂、西荒屋、室、内日角とは昔から物流・交流があったようです。
潟端から内灘へは、米、屑米、藁、薪、灰などを、反対に内灘からは、魚貝類、昆布、スルメイカ、当時は作れなかったスイカやサツマイモなどをいただきました。地元では手に入らない物を交換、売買して、お互いに生活の足しにできました。
4月下旬頃になると、日本海では鰯がたくさん獲れ、内灘の人たちが舟で運んできました。内灘から河北潟を渡って来た舟は、川を遡って取引する家の前まで来ることもあれば、部落西側にある"どんど"(部落から流れてくる水をせき止めていた場所)に舟を着けて商いをする人や、潟から川に入って間もないところで上陸して売り歩く人もいました。天秤を担いだ内灘の人が、「鰯いらんかいね。」と大声をあげて売りに来たものです。
内灘から運ばれてきた鰯には砂が一面につけてありました。鮮度を保つために塗された砂で、鰯は新鮮な状態で届きました。そうした鰯しか見たことがありませんでしたので、潟端では誰もが「鰯には砂がついているもの」と思っていました。
内灘の人たちは、冬になると北海道へ出稼ぎの漁に出ましたので、北海道の昆布やスルメイカなども持ってきてくれました。とくに珍しいのがホタテの干し貝柱で、高級品でなかなか口に出来ませんでした。家の向かいに内灘の舟がつながれていると、内灘から人が来ていることがわかり、その家の知人や親しくしている人たちが集まりました。囲炉裏端へ上がり込んで、北海道の話をきいたり色んな話をしたりと交流が賑やかにありました。話が弾んでくると、北海道民謡の江差追分やタント節を習って謡うこともありました。
潟端では、米一升でよく取引がおこなわれました。当時は地主に年貢を納めていましたので、目立たないように小売りしていました。米は収穫後に米選機に流して、屑米と選別します。金網の幅を調整して、小さいサイズの米(屑米)を下に落としました。一等米を用意するときには金網の幅を広くして、大きいサイズの米だけが残るようにします。そのような選別方法なので屑米の質は様々でした。方言で「ダゴノモン」というと屑米のことで、誰にでも通用する言葉でした。屑という言葉からは不要な物というイメージを受けますが、屑米は貴重がられたものです。屑米を石臼で挽いた米粉を、小さい団子にして押しつぶしたものを小豆で煮込んだお汁粉は、非常に美味しくてお腹もふくれました。手間の掛かる汁粉はお婆ちゃんがつくってくれる有り難いものでした。
潟端は稲作のおかげで、日常煮炊きするときの燃料にする藁や籾殻がたくさんありました。また、囲炉裏端で藁や薪を燃やしたり、竃でご飯を炊くときに籾殻を燃やすので、非常にたくさんの灰がたまりました。一方、砂丘地側は水田が少ないので、潟端の藁や籾殻、灰が必要とされました。藁や灰は、畑の肥料にもなりますが、サツマイモなどの苗にかぶして砂で焼けるのを防いだり、湿度を保つのに使われたようです。砂丘地の松の葉は燃料にされましたが、松葉を燃やしてとれる灰は少量でした。

大事にした言い伝え
当時は現在のような交通網が発達しておらず、一般には舟以外は人力の荷車しかありませんでした。潟端から内灘まで行くには、陸からは遠回りになるので、舟のほうが楽でした。ただ潟端の舟は、稲を運搬するために作られた舟でしたので波が入りやすく、潟端の舟で内灘へ行くことは稀でした。潟端でも浜通いする人(内灘へ行商に行く人)が数名いましたが、そうした人たちは内灘の中古品の舟を買って使っていました。内灘の舟は舳先が上がっているので、多少波があっても大丈夫でした。
西荒屋の二ツ屋彦次郎さんとは、むかしから坂野家と交流がありました。西荒屋から舟で河北潟を渡ってきたときに、坂野家でよく一服しましたが、「河北潟に吹く風は時計の針周りで、北風が吹いたら、山瀬風になり、そして下りの風にまわる。漁をするときや潟を横切るときの知恵だ。」と、よく語っていました。潟端では、北風のことを“北風(あいのかぜ)”、東風を“山瀬風(やませ)”、西風を“西風(まにしにのかぜ)”、金沢の方から潟端へ吹く南西の風を“下りの風(くだりのかぜ)”と言っていました。内灘の人は風向きが悪くても、帆を操る技術を持っていましたので、斜め向かい風が吹いている中でも上手に帰って行きましたが、追い風を利用すると楽に戻れるようでした。「北風が吹いて、山瀬風になったら、帆を上げて帰らなダッチャカンワ(方言:帰らなければいけないわ)。」と言って潟端を出発するのでした。
八十八夜を過ぎると(立春から数えて88日目)、潟端では霜が降りないといわれました。水苗代の時は、霜が降りたら水をかけないと苗の先が白く枯れるので注意が必要でした。また、「霜は3日は続かない、3日目の夕方から雨となる、ただし3日で雨が降らない場合は4日目も晴れるが、夕方から下りとなる。」という言い伝えがありました。そのほかにも天気を予測する謂われが色々あります。「朝虹を見て川を渡るな、雨になる。」、「雨壺が(西南の空)が暗かったら雨となる。」、「うろこ雲が現れたら明日は雨」、「烏の水浴びを見たら、明日は雨」、「太陽が日笠をかぶったら、明日は天気が悪い」、「月が笠を被っていたら、天気が悪くなる」、「山が綺麗に近く見えたら、風が強く吹く。」など、小さい頃から親に聞かされました。情報の少ない時代でしたので、このような知恵を大切にしました。

自然現象
「波静かなる 河北潟 岸の田の面を 眺むれば 加賀の社の大神の 深き恩恵を 思うかな。」、通学していたときの中條小学校の校歌2番です。校歌にもあるように河北潟は穏やかな湖でした。潟端は低地にありますが、家々が水に浸かる危険はありませんでした。大雨が降って津幡川が氾濫したときは、潟端でもとくに低いフゴ地帯の水田(もともとフゴのあった場所の水田のこと。フゴ:潟から切り離されてできた沼地・小さな湖)は水浸しになりました。粘土質で水はけが悪く、1週間も水につかったこともあります。稲が水につかると萎縮病にかかり、不作となりました。
天候の悪い時は、荒波と風の唸る音が日本海の方から聞こえました。日本海の海鳴りといわれるものです。海鳴りはいつも、潟端から見て金石のほうから聞こえ出し、それが次第に能登半島の方へ北上していきました。30分も同じところで海鳴りがすることもあれば、2~3時間で行ってしまうこともあり、半日の間、ゴーゴー、ゴーゴー唸っていることもありました。最近は騒がしいせいか、海鳴りが聞こえなくなりました。
また、河北潟の背後にみえる内灘砂丘の上では竜巻がよく起きていました。潟端から見ると、金石から宇ノ気のほうまで日本海側が広く見え、端から端までの間に、5本も6本も竜巻が同時に数えられることもありました。金石港ができた頃からか、竜巻がまったく見られなくなりました。

(「自然を読む力」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.15-4」に掲載されています。)

テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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