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Ⅸ.潟端の川での漁「漬(つけ)」
2010 / 03 / 27 ( Sat ) 00:01:27
“漬(つけ)”というと何のことだろうと思いましたが、“粗朶漬け”というと何となくイメージがわいていました。でも、魚が付く場所という意味で、“つけ”の漢字は“付け”と思っていました。粗朶木を水に漬けて置くから“漬(つけ)”なのですね。漬の話も感心することばかりで、魚を寄せるのに随分しっかりした場所が作られていたんだなと思いました。一つの漬に40本もの粗朶木が使われていたなんて、樹林のない潟端、まして自動車もない時代、粗朶木の準備だけでも大変な時間と労力を要したことだと思います。漬の場所は、湖岸にあったのかなと、詳しくお聞きするまでは勝手に想像していたのですが、話を伺ってなるほどと思いました。潟の水が引いた時に、川に残った魚が漬に入り込んでくる、その時を狙う、、、河口部や湖岸よりも、川のほうが水深が深かったことなど、話を伺って全然イメージできていなかったことに気づきました。漬の魚を獲るのは基本的に秋から春先とのことで、それ以外の夏場などは魚の良い棲み家になっていただろうと思います。



第8話 潟端の川での漁Ⅱ「漬(つけ)」 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

今から50年ほど前まで、潟端では河北潟へ流れる川を利用して、“漬(粗朶漬)”漁をおこなっていました。川に数十本の粗朶木を漬けて、魚が潜む場所をつくり、そこに寄りついた魚を獲るというものです。漬漁は呼び方や漁法が多少異なりますが、河北潟の周辺地域にいくつか存在したようです。たとえば、大きな津幡川が流れる川尻村には、使い古した舟に粗朶木をつめこんで、その舟をひっくり返して川へ沈めておく、通称「箱漬(はこづけ)」漁がありました。

漬の場所
潟端では基本的に自分の所有する田んぼの川畔に“漬”がつくられました。田んぼの持ち家一つにだいたい平均2,3個の漬がありましたが、人に貸している家や、共同で所持する漬もありました。
漬に適した環境は、川の水位があまり変動せず、潟の水が引いたときに、淀みとして残る場所です。そして舟が通るのに支障のない川幅が広いところが選ばれました。当時の漬があった場所を思い返してみると、大フゴの川に2つ、太田川に5つ、北横川に1つ、南横川に2つ、ギ割川に2つ、百石川に5つ、オソ川に2つのおよそ19ヵ所が数えられました。そのほかアクスイ川、二百石川、五百石川にもいくつかありましたが、そこは他所の地内の人たちの漬で、地主に許可をもらって使われていました。また、荒川より北側は川尻村の土地で、この辺りにはみられませんでした。
部落の近くにも魚はたくさんいましたが、生活排水が直接流れ込むところの魚を捕って食べることはしませんでした。漬があるのも部落から少し離れた下流側です。下流でも河口近くや潟岸は、水深が浅いためできませんでした。鋤簾などで泥揚げされる川のほうが深く、潟の水が引いたときに川に残った魚が、隠れ家になる漬に入ってくるのでした。

漬のつくり方
当時の川は、現在の車道のようなもので、舟の通行路となっていました。とくに稲の取り入れ時期には舟が頻繁に往来するため、漬が通行の妨げにならないよう注意が必要でした。
川幅が1間半~2間(約2.7~3.6m)のところに漬をつくるので、舟の通り道をできるだけ空けるために、漬をつくる側の川岸を幅3尺(約1m)長さ2間半ほど削り込みました。つぎに川底がほかより少し深くなるように掘ります。そして川岸から1間くらいのところに杭を2本打ち込み、その杭と川岸の間に粗朶木を漬けていきます。粗朶木は切り口をそろえて並べ、まず10本、つぎに枝先を逆向けにして10本ほど漬けます。あと2回繰り返し、40本ほど漬けたら、刈り取ったマコモや稲藁を上に被せて日陰をつくりました。さらにその上に粗朶木を交互に2,3本のせて、漬けた粗朶木が浮き上がらないように、上から杭木で押さえ、最初に打ち込んだ2本の杭に縛って出来上がりとなります。また、削り込んだ川岸がこけないよう(崩れないよう)、粗朶を組んで護岸する人もいました。

粗朶木の樹種
川に漬ける粗朶木は細枝がたくさんでている落葉樹を使いました。樹種はエゴノキがもっとも良く、地元では“チチャノキ”とか“チャガマノキ”と呼んでいました。幹の太さは手に握れるくらいが丁度よく、長さは2間~2間半(約3.6~4.5m)ほどにそろえました。チチャノキの材質は堅いので、鎌の柄や鉈の柄にもなりました。クヌギも漬に使われることがありましたが、クヌギは枝が折れやすく、水に浸けると重たくなるので好まれませんでした。またヤナギを使う人はほとんどいませんでした。
潟端には木がほとんどありませんでしたので、山を持っている中条や太田にいる親戚を頼りにしました。漬で魚が捕れたときは、粗朶木をもらったお礼に、ピチピチ跳ねる活きの良い魚を持っていきました。

漬漁
漁期は基本的には、秋の取り入れが終わって霜が降りる頃から、3月5日頃の田祭りまででした。潟の水位が下がり、魚が漬に入ってくる頃を見計らって揚げにいきます。だいたい月に1回くらいの頻度でした。漬を揚げるときは、まず魚が逃げないように、周りを袋網などで囲みます。水中にある粗朶木を揚げるのは大変なことですが、カンコという良くできた道具がありました。カンコで粗朶木をひっかけると、跳ね上げるようにして川畔に揚げることができます。そして粗朶木に隠れていた魚が慌てて逃げ出すところを前掻で捕まえ、残った魚を袋網に追い込んだあと網を引き揚げました。穫れた魚を盥に移して、粗朶木はまた元の状態にもどしました。漬の粗朶木が、2年ほど経って古くなったら、5~6本追加したり、新しい粗朶木と取り替えてやりました。
漬で穫れる魚は大物が多く、フナは15cmくらいが10匹ほど、ナマズも50cmくらいのものが2~3匹入っているのが普通でした。終戦後は50cmくらいのライギョが入ることもあり、その時は、ほかの魚は穫れずに不漁でした。
戦時中の物がないときは、漬でとれる魚が大変有り難いものでした。昭和27年以降におこなわれた耕地整理で多くの川が車道に変わり、漬もなくなっていきました。


(「潟端の川での漁Ⅱ「漬け」」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.14-4」に掲載されています。)

テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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