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XⅨ.ヌカエビ
2012 / 05 / 18 ( Fri ) 19:23:28
第19話 ヌカエビ ・・・・・・・☆

19話では、坂野さんが以前に書かれた文章を掲載します。ヌカエビとライギョのことは、2010年6月に,鮒櫃は、2011年3月にいただいた内容です。文字や文のつながりは部分的に修正しています。

たしか秋の農繁期が終わった頃だったと思います。昼も近づいたので家に帰ろうと、中条フゴの川畔を歩いていたとき、ヌカエビが川の藻の水面にたくさんいるのを見つけました。この川は、幅は6尺あまりほど(約1.8m)しかありませんでしたが、深さは大人の胸ぐらいまである深い川でした。藻は、秋の入りに引きましたので、取り残したものが水面に広がって生えていたくらいに思います。ヌカエビがたくさんいる様子を見て、急いでエビを掬う網(タモ)を取って来ました。1時間ほど掬って、約1升5合くらい(5kg)は捕れて大漁でした。普通は半日かかっても捕れない量だと思いました。それ以降にも同じ場所で、このような出来事が2回ほどあったと記憶しています。
エビを捕るときは専用のタモ網を使いました。川の藻をタモで掬って、水切りをするために揺すると、藻は目皿の網に残り、エビだけが網の中に溜まりました。

ライギョを捕るのは主に、「漬漁」で捕りましたが、夏場の朝夕の暇な時間に遊び心で釣りをすることもありました。
釣り竿を利用して、釣り糸の先の針に、アマガエルの背中の皮に針を引っかけ、そのカエルをライギョの潜んでいるような川岸の藻の隙間で、蛙がチョンチョンと水面を跳ねるように動かします。ライギョはその餌に飛びついて、鵜呑みにするので、上手に捕まえることができます。そして引きの強い手応えは、釣りをしたことのある人には忘れられない快感でした。
ライギョは体の背に模様があり、ニシキヘビの模様と一部似ていたこともあって、はじめは敬遠されていましたが、ライギョを食べると、体が元気になると言われ、また海の魚に似た食感で食べるようになりました。子供の頃は、ライギョは河北潟や川にはいませんでした。戦後に急増した魚でした。
川で産卵して、卵から出ると、藻の間にちょうど蛙のオタマジャクシの群れのように水面に泳いでいました。その群れの下、水面下の藻の間で、親魚が番をしております。危険なものが近づくと、跳ねて、水面にいる子どもが「さーっ」と一気に隠れました。
体長30cm以下の小さなライギョは、捕まえても食べずに放してやりました。ライギョ釣りの餌にシオカラトンボをつける人もいましたが、効果は少なかったようです。


10月に入って、水温も下がり、漬漁に行くようになると、時々、大物の魚が入ります。そのような鮒の大物とか、三年ナマズなどの大物は、川に漬けた鮒櫃に泳がして保存しました。
水がたくさん入っていても、鮒櫃が浮きますので、上に石などを置いて沈め、杭を打って縄でしばり安定させました。
クサマキでつくるドジョウ入れ(木製の櫃)と違って、スギ材の厚い板を使いました。大きさも色々ありましたが、普通は横幅約1m50cm×奥行き70cm×高さ約25cmくらいの物でした。


(「ヌカエビ」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.17-3」に掲載されています。)
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坂野さん、ありがとうございました。
2012 / 04 / 23 ( Mon ) 19:45:56
長い間、水郷時代の潟端について色々な話をしてくださった坂野 巌さんが、2012年3月23日に永眠されました。
かほくがた通信に「河北潟の水郷~潟端より~」の連載をはじめてから5年が経ちます。
坂野さんの多大なご尽力のおかげで連載することが出来ました。どの話題も当時の様子を知る貴重な内容です。坂野さんの記憶には過去の情景や体験した様々なことが鮮明に残されていました。そのことを少しでも具体的に記録し、読まれた方がイメージできるよう表現できればと思って取り組んできました。
記録作業を続けることができたのは、坂野さんの温かい人柄に支えられていたからです。絵を描かれて説明されたり、実物を用意されたり、家に残されている道具の計測をしたりと、色々なかたちで説明してくださいました。また、坂野さんとつながる地元の人たちの協力もありました。原稿に目を通して助言・応援いただいたこと、有り難く聞いておりました。原動力にもなっていました。
感謝の気持ちを、伝えるべきことがたくさんあったはずなのに、後悔が募るばかりです。

坂野 巌さんのお話は、第20話で完結とさせていただきます。

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水車(みずぐるま)
2012 / 02 / 11 ( Sat ) 19:30:54
mizugurumaHP.jpg

田んぼが水涸れになったときに使われた「水車」。
水車を踏んで、川から田んぼに水が入れられました。

イラストは、水車を踏む女性の姿です。
水車を踏むのは、大人の男性が主役でしたが、潟端に嫁いできた人は活発でよく水車を踏まれたそうです。
女性の下衣は、絣(かすり)のもんぺに、紺色の脚絆(きはん)をつけています。足首の脚絆を結ぶ紐が赤色で目立っていたとか。上衣は桃色の木綿シャツ、腰には赤い帯をつけた女性が半分ほどいたとのことです。
頭にはハチマキをしています。女性はふだんは頬被りをすることが普通だったそうですが、水車を踏むときは汗が出るので、手ぬぐいでハチマキをしたそうです。

水車(みずぐるま)の材質は、スギ、ヒノキ、クサマキ(アテ)など。
クサマキが一番高級で耐久性があります。

津幡町歴史民俗資料収蔵庫に、水車が収蔵されていますので、現物を確認させていただきました。
水車の羽根板は13枚。
一枚の羽根板のサイズは、33cm×24cm、厚み5mm。





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◆ドジョウすくいの帰り
2012 / 01 / 19 ( Thu ) 12:24:40
dozyousHP.jpg

このドジョウすくいのイラストは、聞き取り作業をはじめて間もない頃、平成16年にいただきました。
その後、ときどきドジョウの話を伺うことはありましたが、ドジョウについて詳細をまとめることになったのは、昨年平成23年に入ってからです。6月に発行した通信にようやく「第16回 ドジョウ掬い」を掲載できました。
イラストは、もちろん坂野 巌さんが書かれたものです。
線の消えているところなどはすこし私の方で修正させてもらっていますが。

この絵をみていると、心がなごんで、元気がもらえる、大好きな絵です。
まわりの田園、水郷の潟端、空気みたいなものも想像させてくれます。
豊漁で喜んでいる様子です。


-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-


津幡も雪が積もりました。(1月25-26日)
あと一月もすれば、春もそこまで来ています

坂野さんの容体が悪くなり心配です。



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XⅧ.紐はカラムシ
2011 / 12 / 21 ( Wed ) 15:32:54
第18話 紐はカラムシ ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃(昭和34年頃)までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

麻畠
カラムシ(イラクサ科の多年草)は、茎の繊維が強く、麻として利用されていました。日常に必要な紐や縄などを自分たちで作っていた当時、カラムシの栽培は当たり前のことでした。
カラムシは、畑3坪くらいの場所(軽トラックの荷台4つ分ほどの広さ)で育てていました。その場所のことを「麻畠」といって、農家のどの家でも作られていました。麻畠の場所は、「屋号○○家の麻畠」などと呼ばれ、持ち主がふつうに知られているものでした。麻畠の広さは大小ありましたが、少ない家では、たくさんある家の余った分をもらっていたようです。
麻の刈り取り時期は夏に決まっていましたが、刈り取りをしたほうが来年良い物ができるといわれ、麻畠のカラムシは毎夏きれいに刈り取られました。カラムシのりっぱなものは、茎の太さが親指以上(直径2.5~3cmくらい)もあり、1株からたくさんの繊維がとれますので、太いカラムシが穫れるように、肥料をやって育てていました。
麻畠は、夏が近づくと蚊などの虫がたくさん発生し、嫌がられる場所でした。虫除けスプレーや殺虫剤もありませんでしたので、できるだけ近づかないようにしていました。

カラムシの利用
カラムシを刈り取る日は「土用の3番」と言われ、7月20日の土用入りして3日目が作業日でした。雨天の時は遅らせます。カラムシを育てて繊維を取るのは祖母の仕事でしたが、時々井戸水を汲むなどの手伝いをしました。
カラムシの繊維の取り方は、刈り取り後すぐに茎の皮をむいて、むいた皮を薄板の台の上に置き、専用の鏝(コテ)を使って皮を削ります。白くなるまで削り取って繊維を取り出し、水洗いして盥でしばらく晒してから、竿に吊して乾かしました。
乾かした繊維を綯って、紐や縄にします。カラムシの繊維は繊細でありながら強力で、細い紐から太いロープまで自由に作ることができました。ナイロン紐がありませんでしたので、カラムシの紐は重宝しました。また、藁で作られたロープよりも、カラムシの方が3倍も4倍も強くて丈夫で、カラムシの3本縄でつくられたロープは最も強度がありました。刈り取りした稲を積み込んだ舟を引っ張るときのロープとして用いたり、内灘へ行く舟の帆柱を立てるときにも用いられました。そのほか荷物を背負う縄、葦簀の紐、下駄の鼻緒の芯など、様々な用途がありました。
また、繊維だけでなく、皮をむいた後の茎を利用することもありました。乾燥させた茎を、家のタンスの下などに敷きつめます。カラムシの茎は中空で、吸湿、放湿性に優れている性質から、湿気取りとして上手く利用されていたように思います。

縄ない
いまでは縄を綯うことのできる人は少なくなりました。藁を3~4本ずつ両手に取り、両手の掌で縒りをかけて、一本の縄を作ることを綯うといいます。縄の太さが均一で、引っ張っても抜けたり切れたりしない丈夫なものが優れており、縄綯いも経験が大切でした。縄を綯う前段階に、藁を選って、一升瓶ほどの大きさに束ねたものを杵で叩きます。汗が出るほどたくさん叩きました。この手間を掛けることで柔らかくて使いやすい縄ができ、持ちも良くなりました。縄の出来が良いと草履や草鞋も上手に編むことができました。
それぞれの用途に合わせて太さの違う縄が作られていました。当時は、太さや長さの単位が尺貫法でしたので、縄の太さも「○分縄」といわれて通用しました。日頃一番使われた藁縄は、3分5厘ほど(約12mm)の太さで、「4分縄」と呼ばれていました。
縄の一番太いものは、なんといっても稲架縄で、8分(約24mm径)以上の太さがありました。ふつう縄は2本で綯いますが、稲架縄は3本で綯いました。3本縄でないと、稲の乾きが悪いといわれ、3本縄をつくるときは男性二人がかりで行いました。上から縄を吊して、その両脇に立って作業します。家族3人で協力することもありました。人力の縄綯い機もありましたが、藁を差し込むサイズに限界がありましたので、稲架縄ほどの太い縄は作れませんでした。
稲架縄は太さだけでなく、長さもありました。潟端では幅10間の稲架場に、稲架縄が10段架けられることが普通で、その10段分が1本の縄で張られます。長さにして100間分(約180m以上)もあります。保管するときは、縄を輪にして積み重ね、一回り6尺になるような大きさで円にし、それを10回させると60尺で稲架場一段分の長さに、それが10段分で100間と、長さを確認できる置き方をしました。この稲架縄は、冬場に作る大仕事でした。
「柴刈り 縄綯い 草鞋をつくり、親の手を助け 弟を世話し、兄弟仲良く孝行つくす、手本は二宮金次郎。」、唱歌の二宮金次郎にあるとおり、縄を綯うことが暮らしの一部にあった時代でした。

ナイロンの登場
各家で作る麻紐や藁縄は、自家用に使うのがふつうで、譲ることはあっても、売り物にはしませんでした。当時は、金沢市横安江町別院通りの目細針商店で、ロープや魚網などが売られていました。綿糸で作られたものがほとんどで、綿製のロープを購入して、荷舟を引っ張るのに使う人もいましたが、水に濡れると固くなる欠点があったようです。投網も終戦以前は木綿でした。
その後、ナイロンが流行してきましたが、ナイロン製の漁網は、高価でしたので使いませんでした。ナイロン紐が売り出されてから2~3年は、ナイロン紐にも難点がありましたが、次第に改良されて値段も下がり、利用するようになりました。自前の麻紐のように作る手間もかからず、安価なので気楽に使うようになりました。
ナイロンの普及がすすむとともに麻畠は姿を消していきました。耕して畑になったり、宅地に変わりました。そうしてカラムシ(麻紐)もいつの間にか使わなくなりました。


(「紐はカラムシ」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.17-2」に掲載されています。)

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