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◆前掻漁人図
2010 / 03 / 19 ( Fri ) 20:07:33
maegakiHP.jpg

 ↑ 秋の前掻漁の姿

前掻(まえがき)は、てのひらで握れるくらいの竹竿に網を付けた漁具。長さ3~4m。潟端では、川の泥の中に潜っているフナを獲るときなどに使われました。

maegaki2HP.jpg
 ↑ 寒中の前掻漁の姿

(イラストは坂野さんが描かれたものを一部修正したものです)

テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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Ⅶ.農閑期の川での漁
2010 / 03 / 18 ( Thu ) 13:20:20
前回に引き続いて、潟端でおこなわれた漁の話です。今回の話で、前掻「まえがき」という漁具をはじめて知りました。最初なかなかイメージできず、理解するのに時間が掛かりました。まえがきを使って魚を捕るので前掻漁。前掻漁は八田村などほかの地域にもありましたが、漁法は異なっていたようです。道具は同じでも、手法はそれぞれ、他の地域の漁法にも興味が広がります。また、前回の話でまとめた「うがい漁」も潟端独特の漁法だったようです。子ども時代のフナの手づかみについての話をする坂野さんはとても楽しそうでした。フナの手づかみができたのは、戦前の子供の頃だけだった・・、農薬が広がる以前の様子を想像できる、貴重な話だと思います。


第7話 農閑期の川での漁 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

潟端には当時、用排水路や稲舟のとおる川が20数本も流れていました。その川はすべて河北潟に通じていましたので、塩水の混じる汽水にいる魚もみられました。冬のフナやアマサギ(ワカサギ)、夏のモロコやゴリ、コイやボラは稀に、そのほかカワギス(マハゼ)やナマズにドジョウなど、川の魚は潟端でくらす人たちの食を豊かにしてくれました。とくに冬のフナは身が締まって美味しく、最もよく食べられました。カワギスは川でも河口部のヨシがあるところに多くいました。叩網漁をしたときに、網に異常に入ったこともあります。終戦頃までたくさんみられました。ハネ(スズキの小さいもの)が、10匹から20匹の群れをなして、川に上ってくることもありました。
潟端のくらしは米づくりが基本でしたが、農繁期以外の秋から冬にかけては、漁をして生活の足しにしました。晩秋の前掻漁、逆網漁、うろ突網、寒中のカテヤブリ、晩夏の叩網漁など、川漁にも色々な漁法があります。

フナの手づかみと、前掻漁
秋、稲架干しした稲の取り入れが終わると、暇を見つけては川へ鮒(フナ)とりに出ました。
水が冷たくなる頃で、動きが鈍くなったフナは、泥の中や藁屑とか草木の根があるところに潜むようになります。とくに川縁にある立ち木(ハンノキやダゴノキなど)の根本あたりは、水流で土が洗われて窪みになっており、毛根が出ていてフナの良い隠れ場所でした。そのような所にいるフナはたいがい、草や根に頭を突っこんで、後ろ半分が丸見え状態になっているので、魚の背後からそっと手づかみすることができました。当時は水が澄んでいたので、魚を見つけて魚の動きを見ながら捕まえることができ、楽しくてやり甲斐がありました。フナの手づかみができたのは、戦前の子供の時だけでした。その頃は1時間もすると、「イコ」1升がいっぱいになるほどフナが捕れました。フナの手づかみは子供が主役で、たくさんとって親を喜ばせようと張り切っていたものです。このようなことは田んぼで除草剤が使われ出した頃からなくなり、フナも姿を見せなくなりました。
川底の泥の中に潜っているフナ(小鮒)を捕るときには、前掻という漁具が使われました。フナが潜んでいそうな場所を探して、前掻で川底を浚うようにひいて泥ごと捕ります。水面に泥底から泡が2、3ブツブツ出ていると、フナがいると予想でき、その泡の30cmほど向こうから手前にすっと浚うと上手くとれました。熟練した人は、すばやく引き上げ、泥を掬わず魚だけを捕ることができますが、下手にすると、魚は逃げて泥だけがたくさん入ってしまいます。より上手く捕れるよう皆それぞれ努力していました。腰に付けたイコに魚を入れる姿は、遠くから見てもよくわかるもので、魚を盛んにひろっていたり、なかなか捕れないでいる様子を見て参考にしました。

逆網漁
前掻漁はふつう、魚が捕れそうな川に一人で歩いて行き、早朝から2時間程度で戻る人もいれば、半日頑張る人など、自由におこなわれるものでした。逆網漁は、前掻漁を基本にしたものですが、数人で協力しておこないます。逆網漁ではまず、袋網を2張りと、捕った魚を活かす直径60cmほどの盥などを舟に積んで、舟で目的の川に向かいます。川を下って河口に舟を置いた後、そのすぐ川上に網を張ります。もうひとつの逆網に使う網は、さらに10mほど上流の河畔にたたんで置きます。そして川の両岸に2人ずつ分かれ、様子を見ながら100~200mほど上流まで歩いていき、そこから川下に向かって前掻で魚を追い込んでいきます。基本的に先頭の2人は、魚が潜んでいそうな所を前掻で掬いながら、後方の2人は魚が上流へ逃げないように前掻の竹竿で突きながら進みました。そうして川下に張った網の手前10mほどに迫ったとき、河畔に用意しておいた逆網を素早く張ります。ここで一服。後は、網で囲われた川の中でしばらく前掻をつづけて撹拌し、袋網の中へ魚を追いやってから、網を引き上げます。漁は4人でするのが最適ですが、2人でもできました。時期は農閑期に入った10~11月頃ですが、嵐の後の増水した水が引いていったときを狙っておこなわれました。

氷割漁(カテヤブリ、カテワリ)
前掻漁も逆網漁も、寒中にはおこないませんでした。厳寒期にはカテヤブリという変わった漁がありました。カテワリとも言いました。降った雪が川を埋め、氷が張ったときにおこないます。舟は使えなくなるので、ズリ(ソリ)に網と木箱(盥の代わりで小さめの容器)を乗せて運びました。ハサ木の頭をとがらせたような棒で、氷を割りながら川下へ魚を追い込みます。逆網漁と同じ要領でしますが、さいごの網で囲われた範囲は、氷や雪をすべて川から取り除いてから、魚を袋網へ追い込んでとりました。漁は氷が割れにくい状態の時は避け、川の水と、氷の間に間隙ができたときを見計らっておこないました。また、逆網漁もカテヤブリも百石川など水深の深い川でおこないました。
漁に出なかった日に、お隣さんからアマサギをたくさんもらったことがありました。その日は天候が良く、10人程度の人がギワリ川まで漁に出ていたそうです。ギワリ川も水深1.5mほどある深い川でしたので、カテヤブリができました。そのときは川にたくさんのアマサギの群れが遡上していたようで、網が上がらないほど獲れたそうです。大漁で「万歳!万歳!」という声もあがりました。噂を聞いて5~6人の人たちが翌日ギワリ川へ漁に出ましたが、その方たちも1人5kgくらいの量がとれていたようでした。森下川へ遡上しようとした魚が、なにかあって遡上できずに、ギワリ川の方へ入ってきたのではないかと言われていました。

(「農閑期の川での漁」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.14-3」に掲載されています。)


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◆潟端うがい漁図
2010 / 03 / 10 ( Wed ) 19:51:58
ugairyouHP.jpg

日没前のうがい漁の様子(坂野さんが描かれたイラストを一部修正しました。)
「追い詰められたボラの群れが1mほど飛び上がって逃げたこともあった、魚が漁具の「うがい」の中に入った時、手で押さえた「うがい」がにゴトコトと動くので魚が入ったことがわかる、いまでもその感触が残っている。」、うがい漁の話をする坂野さんの目には当時の光景が鮮明に浮かんでいるようでした。


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 漁具:うがい
 津幡町歴史民族資料収蔵庫に保存されている「うがい」。
 (2004年と2007年に撮影)
 手製の漁具なので、形大きさなどは物によって違う。
 

漁のイラストは、漁に出た人たちの服装なども表現しています。
腰に巻き付けてあるのは「いずみ」という縄で編んだバックです。
うがいに魚が入ったら、直ぐに「いずみ」に移しました。

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Ⅵ.うがい漁
2010 / 03 / 09 ( Tue ) 09:40:39
うがい漁で使われた"うがい(うかい)"という漁具は、津幡町歴史民俗資料収蔵庫(旧吉倉小学校校舎)で見ることができます。こちらには町の文化的な生活道具がたくさん収蔵されています。坂野さんが使われていた櫓と櫂も寄贈されていました。そのほか舟や水車、農作業用具なども見ることができます。入館料無料で自由に見学させてもらえます。ただ、見学したいときは、事前に津幡町教育委員会生涯教育課まで連絡しておかないと、閉館していることがあるので注意が必要。閉館していた場合でも、玄関先に書かれている連絡先に電話すると、町からすぐに開けに来てくださいます。距離があるので30分ほど待たないといけませんが☆ とてもすてきな資料館です。


第6話 潟端のうがい漁 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

潟端では、"うがい(うかい)"という竹製の漁具を用いた漁がおこなわれていました。うがいは水深が太股くらいまでの浅瀬で使用するもので、魚が入るように上から水底に被せ、中に閉じこめた魚を上の口から手で取り出します。

漁の時期
うがいの漁をする時期は夏の終わりに限られていました。稲穂が固まる頃です。8月は夜のみ、9~10月は日中のみおこなわれました。真夏の水藻が生い茂っている頃は、うがいが素早く被さらず藻の隙間から魚が逃げてしまいますが、水藻の葉が枯れる夏の終わりになると、水中の茂みだけが残って魚が捕れやすい状態になりました(ニラモなどの葉先が切れてなくなるようです)。8月下旬の夜が適期で、うがい漁は夏の夜の楽しみの一つでした。祭りの前で忙しい時期でしたが、8月20日頃から天候の様子をみながら仲間で相談したものです。9月の稲刈りが始まると、だんだん大勢で行くことがなくなり、農繁期後もそれぞれ仕事があって、日中の午後しかできませんでした。10月になると潟の水温が下がってくるので、元気な人達5~6人だけが行っていました。

漁の方法
うがい漁は部落全員誰でも参加でき、基本的には大人の男性でしたが、終戦のときには女の人も混じることがありました。小学6年生以上の子供も身内の人に連れられて一緒に参加することがありました。漁に出る人数は、数人の時もあれば20数人の時もあり、あまり大勢になると、あるいは少なくても魚を追い込むのが難しくなるもので、24~25人が丁度いいくらいでした。8月29日の秋祭りの前日は大勢が参加し、漁場を二組に分けておこなったこともありました。
漁では指揮をとる人の存在が重要でした。部落には、世話好きでいつも快活な人柄のリーダー的存在の方が4~5人もいて、うがい日和の夕方近くになると、リーダーたちが集まって、場所やコースなどを相談していたようです。部落はずれの川下の橋の上に、うがいが2つ3つ並べられていると、「うがいがあるぞ!」と言って、行きたい人達は仕事を止め、急いで家へ帰っておにぎりなどを食べて準備し、うがいを持参しました。
日没前に、リーダーに従って漁を行う場所へ入ります。潟岸の葦場は通らずに田んぼの河畔から河口に出ました。潟に入ると、葦場の縁伝いに歩く人達と、潟の沖の方に向かう人達との二手に分かれて移動し、直径100mあまりの円をつくります。沖の方へ向かったリーダー格から「はじめるぞ!」との声がかかると、皆一斉にうがいを動かしながら、沖の方から葦場の浅い方へ追い込むように前へ進みはじめます。うがいを水底と水底から30~40cmの間で上げ下げし、魚が中に入ってくるのを狙いました。葦場側にいる人はあまり動かず、待つようにしてうがいを上下に動かしました。漁場を包み込むように輪が縮まってくると、人垣が二重にも三重にもなります。手で押さえたうがいの竹に、コトコトと手応えがあると、魚が入ったことがわかります。中に手を入れて魚を捕まえたら、すぐに "いずみ"(腰にまきつけている縄で編んだバック)に移しました。「でっかいぞ。」、「わっ、でっかいなー、逃がすな。」などと声を掛け合って、大きな魚が入ったときは逃がさないように、近くにいる人達2~3人で助け合いました。
このような方法で、少しずつ場所を変えて5~6回も行うと、誰でも5~10匹は捕れました。上手な人や当たりの時は20~30匹も捕れることがありました。「さ~、どうやらおかずも捕れたようやし、今夜はこれで帰るか。」と、リーダー格の声がかかると、漁は終了となります。辺りはすっかり暗く、明かりのない田んぼ道を、皆で気を付けながら帰りました。
漁場は津幡川河口から部落の西の潟縁までで、夏のコースは2通りありました。ひとつは川尻用水路を歩いて、突き当たりの津幡川から潟へ出て、五反川河口から南へ向かって漁を行い、荒川から帰るコースです。漁をして漁場が荒らされた後の2~3日は入りませんでした。川尻の11号の川から潟端の辺りが一番良い漁場で、魚がたくさんいました。また、五反田の河口は、ガマやマコモ、ヨシなどがたくさんあって、いつも何か捕れる最高の場所でした。一方、百石川河口の方ではあまり魚がとれず、潟端より南で漁をすることはほとんどありませんでした。

漁で捕れた魚
うがい漁で捕れた魚は、フナ、ナマズ、スズキ、ボラ、ライギョ、コイで、時々キスも入りました。ボラは40~50cmサイズのものでした。ライギョは終戦後にみられるようになった魚で元々いませんでした。そのほかウナギも入りましたが、竹の隙間を頭でこじあけるのでいつも逃げられました。また、夜中に女の人が調理するので、面倒をかけないよう小さい魚は逃がしてやり、20~30cm以上の大きい魚だけを持ち帰りました。フナやナマズは大きいのが捕れましたが、夏はあまり食べませんでした。家では女の人が漁の帰りを待っており、持ち帰った魚はすぐに囲炉裏やコンロで焼いて食べたり、明朝のおかずや保存用に塩漬けにしました。

(「潟端のうがい漁」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.14-2」に掲載されています。)

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Ⅴ.魚が豊富な汽水湖、河北潟
2010 / 02 / 27 ( Sat ) 18:18:18
当時の潟端のイメージがだんだん膨らんできました。ここからは河北潟全体にイメージを広げていきたいと思います。このあとしばらく潟端でおこなわれた漁の話になります。


第5話 魚が豊富な汽水湖、河北潟 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

河北潟に干拓地ができ1980年(昭和55年)に大根布防潮水門が設置されるまで、河北潟には大野川から海水が流れ込んでいました。塩水と真水が混じる汽水湖で、いまと違って魚の種類が豊富でした。粟崎の北陸鉄道の鉄橋より下流の、機具橋よりもう一つ下流側に大野川逆水門がありました。日本海の水位が高くなり、稲作に被害が出るようなときに逆水門は閉められました。

逆水門での思い出話
終戦から2~3年後のこと、年が若くて兵役から免れた男連中で、逆水門の少し手前まで舟で遊びに行くことがありました。夏の夕涼みに前川の橋で、「どうや舟で河北潟を通って大野川の河口の逆水門まで、舟遊び気分で見学に行くまいか。」と、話が持ち上がったのが始まりでした。舟2艘で10人、1泊2日の予定で出発。必需品を皆で相談し、家にある物を持ち合わせました。潟端の前川から太田川を出て、河北潟の西方、大野川を目指していきました。逆水門の近くまで2時間余りかかったと記憶しています。予備知識もない行き当たりばったりの旅で、キャンプする場所を決めるのに時間がかかりました。大野川の土手の空き地で野宿することが決まり、岸辺に舟を繋いで、川に入って遊びました。
川底が砂地で固いので立つことができましたが、立っているとすぐに足裏へコチョコチョと小魚が入ってきました。足裏で押さえて捕まえてみると、川ゴリと違って口が大きいハゼ(マハゼ?)でした。逃がしてやりましたが、すぐまた別の魚が足の裏へ入ってくるのでした。水が綺麗で、水深1mくらいまで川底がよく見え、ミズガレイとかが泳ぐ姿がみえました。この辺りの川底には、茶碗がいくつも伏せてありました。ゴリを捕るために仕掛けられた物のようです。いたずらして茶碗の下に潜り込んでいる魚を捕まえたりしました。土手の株立ちしたヤナギの根元には、マッチ箱より小さいカニが2~3匹いました。空き地ではそれぞれが段取りよく、筵を並べて休む場所を作ったり、舟の帆で日陰を作ったり、家から持ってきた蚊帳を張る準備をしました。昼寝をしたり、家の畑から持ってきたネギを焼いて塩を付けて食べている者もいました。誰かが川で獲ったシジミ貝を、夜のお汁にすると言って洗っていたのも覚えています。持ち寄せた飲み物はキリンビール、三ツ矢サイダー、ラムネが数本、それを一口ぐらいずつ分けて飲んでいました。
夜になって、日没頃まで日本海へ流れていた水が、逆流して潟の方へ流れていることに気づきました。「満潮になる時間かなあ。」と、ある一人が川の水を棹でかき回したときに、皆が一斉に「水が光る!」と声を上げて驚きました。棹で水面を動かすと、水滴ほどの大きさの粒が金色にキラキラと光り輝きました。あんな光景を見たのは初めてで、心にとまる出来事でした。(夜光虫による光の様です)
蚊帳の中ではランプの明かりを頼りに、手回しハンドルでゼンマイを巻く最新型の蓄音機で、レコードを回したり、李香蘭(山口淑子)の支那の夜とか、寿々木米若の浪曲佐渡情話などを聞いて夜を過ごしました。

魚が寄りついた浅瀬の様子
河北潟は広大で、場所によって塩水の入り具合が違っていました。天候や風向きによっても変わりますが、海と通じる大野川に近いほど塩分濃度が高く、川尻より北側は塩分濃度が薄くてほぼ真水のようでした。潟端の辺りは、大野川から流れ込んでくる塩水と、津幡川や山手の方から流れ込んでくる真水がぶつかる所で、ボラ、ウナギ、ハネ(スズキ)、ゴリ、サヨリ、ライギョ、アマサギ(ワカサギ)、ウグイ、フナ、ナマズ、メダカなど、海の魚も淡水にいる魚もみられました。
河北潟の東岸は水深が浅くて、岸から100m以上先まで50cmほどしか水位差がなく、歩くことができました。その浅瀬には、ニラモ(アマモと思われる)や金魚藻のようなものとか、水面の上に葉が漂うのとか、色々な種類の水藻(水生植物)がたくさん生えていました。水藻が生えているのは岸から100~150mくらいまでで、その先は水深が急に深くなっていました。潟岸には葦場があり、その葦場の水際から10~30m先に、銭五の杭(銭屋五兵衛の埋め立て事業により作られた杭)がありました。銭五の杭は1mほどの間隔で、湖岸沿いにずっと続いており、杭の辺りはとくに水藻が茂っていました。夏場は水藻がよく繁茂し、そこに魚が潜んでいました。潟端の辺りの潟の東岸は魚が寄ってくる条件の良い場所だったようです。

潟端の漁
米づくりが主体の潟端では、八田や内灘のような本格的な漁は行いませんでしたが、数名から二十数名が協力して行う小規模な漁がいくつかありました。なかでも「うがい」という漁は、浅瀬に寄りついた魚を巧みに捕る方法です。毎年、潟に生い茂った藻が切れる頃の8月の終わりに行われました。


(「魚が豊富な汽水湖、河北潟」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.14-1 2008年」に掲載されています。)

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◆川端の稲架木図
2010 / 02 / 19 ( Fri ) 12:03:08
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ハサ木というと、田んぼ沿いに植えられている立ち木のイメージが強かったですので、少し話を聞いた段階では色々と思い違いをしていました。4話目の「稲架木が並ぶ潟端の風景」でも、低湿地で樹木の少ない潟端ならではの手法があったことを理解できます。稲を架けるために4mほどある木を立てて縄を張り、終わったら片付ける、農作業は繰り返しであることを感じる内容でした。

テーマ:自然科学 - ジャンル:学問・文化・芸術

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Ⅳ.稲架木が並ぶ潟端の風景
2010 / 02 / 18 ( Thu ) 13:37:18
稲架木が並ぶ風景は、潟端で暮らしてきた人たちの心に強く残っているようです。この書き残し作業をすすめるなか、坂野さんはいつもご自身だけの記憶にたよらず、ある程度書きまとめられた段階で、日常声をかわす地元の人たちに目を通してもらったり、むかしのことを振り返って話を聞いてみたりされています。川沿いに並ぶ稲架木に稲束が架けられた風景は見事だった、米どころ潟端ならではの風景だったということを聞く度に、早い段階で書きまとめたいなと思いました。そういう気持ちで「稲架木が並ぶ潟端の風景」とタイトルをつけましたが、聞き取り作業を進めていると、風景というより、現在の潟端ではみられない「稲架木」に焦点がいきました。稲架木の立て方など細かな話が多くなりましたが、低地にあるこの地域では稲架干しが一番の方法であったこと、樹木がほとんどない地域なので様々な工夫をしていたこと、縄の縛り方や稲の積み方、干し方など、潟端独特の手法、工夫があり、その具体的なことにふれたいと思いました。でも十分に文章にできず、今後の課題です。


第4話 稲架木が並ぶ潟端の風景 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端(かたばた)」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

コンバインや乾燥機のない時代、稲刈りは手作業でおこなわれ、刈り取った稲は稲架木(ハサ木)に架けて乾燥させていました。耕地整理が行われる以前の潟端の田は、湿田でしたので、地干しができないことから、すべて稲架干ししました。

旧盆の8月15日も過ぎると、そろそろ稲架作りの準備に取りかかります。まず、自分の稲架場に稲架木を立てる穴掘りから始めます。チサメ(チチャミ)という道具を使って、直径15cmほど、深さ40cm~45cmの穴を掘ります。約10間(約18m)の間に立てる場合、1列に10数個~20個ほどの穴を等間隔にあけます。穴の間隔は4尺くらいが平均でしたが、風当たりなど状況を考えて決めるのでそれぞれ違っていました。穴の間隔を狭くすると、強い風が吹いても倒れにくくなりますが、粘土質の土を掘って稲架木を立てるのは大変な労力です。穴掘りが終わると、稲架木を立てるために、「稲架積(はさによ)」から稲架木を舟に乗せて運びます。稲架積とは、使い終えた稲架木を積み置きしている場所のことをいい、多くは川端にありました。舟で運んだ稲架木を穴に立て、隙間を泥で埋めて、足で踏み固めます。両端に立てる2本の木は、縄を張ったときに力がかかりますので、太くて強い稲架木を選びました。
稲架木を立てたら、いよいよ縄を張る作業にかかります。縄を張ったときに倒れないように、両端に立てた太めの稲架木を外側に引っ張るようにして、鉄線を張って杭に固定します。つぎに、どちらかの端の稲架木に縄をくくり付け、反対側の10間先まで縄を張って、端の稲架木に緩まないようにくくり付けます。つづけて20cmほど空けて上の段に縄をくくり付け、また端まで縄を張ります。そうして二段目、三段目と下から縄を張っていきます。一段目の縄の高さは1mほどで、ちょうど大人の腰骨あたりから、十段まで縄を張ると、稲架木の先が30cmほど残ります。縄は二人がかりで張り、5~6段目より上は「鞍掛(くらかけ)」という脚立を使って作業しました。
稲架縄(はさなわ)を張り終わったら、稲架縄と稲架木が交差しているところを、一本一本別の細い縄(3分5里径)を使って男結びで締めていきます。そして、支柱を稲架木を挟むように斜めに差し込んで、縄でしっかり結ぶと完成します。最後の結び方は、通称「マタガケ(フンドシ)」と呼ばれ、これで支柱をとめることにより稲架木が揺れずに安定した状態になりました。
稲架木に張る縄は三本縄で綯うたもので、8分(24mm径)以上の太いものです。普通は3分5里~4分なので、倍くらいの太さで重たいものでした。縄は切らずに使い、10~11段分で約250mもあります。稲架縄は普段はアマ(2階の物置)の風通しの良いところに保管し、5~6年は使いました。

稲架作りの手法は受け継がれてきたもので、潟端では上記のようにつくられました。一列の長さは、稲架木が立てられる場所によっても違いますが、段数は大体10~11段で、段数がこれ以上多いと稲の乾きが悪くなり、また少ないと稲束が落ちやすくなります。稲架木の長さは2間ほど(4m前後)で、末口は直径6cmほどでしたが、人によって多少違っていました。稲架木に使われる木は、クリが多く、能登の三井町(現、輪島市三井町)まで買いに行きました。能登の木は真っ直ぐで、数がたくさんあり、潟端ではたいてい能登の木が使われていました。購入した木は仲買人により、貨物列車で津幡駅まで運ばれ、駅から部落までは荷車で運びました。木は半年間ほど川の水に浸けて、樹皮をむいてから使用しました。

潟端には樹木がほとんど無いこともあり、材木を組み立てて縄を張るタイプの稲架場がほとんどでした。でも、舟の通る川沿いのいくつかの場所に、立木を利用した稲架場がありました。立木の稲架場は、秋に縄を張るだけでできます。坂野さんの家にも「太郎フゴ」の田んぼの二ヵ所にありました。小学校に行くときに通る表道(おもてみち)の南側にもハンノキの稲架木が3ヵ所ほどありました。ここは真冬に吹雪で雪の原になったとき、ハンノキの立木が雪原の上に出るので、道の目印になり、雪で埋まった用水路へ落ちずに済むので助かりました。
立木は川沿いに一列に並んでいますが、枝があると舟の通行の邪魔になるので、下枝はすべて切り落とし、また上の枝も伸びすぎると、風が強いので倒れることから、常に剪定されていました。その切った枝は薪にするなど燃料として利用していました。樹種はハンノキとダゴノキ(トネリコ?)がありました。
稲架場は、立木も組み立て式のタイプも、集落に寄ったところにあり、潟の近くにはありませんでした。たいていは自分の田の端の川端につくられ、稲架木を立てる場所がない人は、地主さんに米(大体5合から一升)を渡して、土地を借りていました。

第一回目の耕地整理の後、幅10間の広い田んぼができてからは、川沿いにびっしりと稲架木が立ち並ぶようになりました。立ち並んだ稲架木に、黄金色の稲束が架けられた風景は美事でした。
しかしやがて、コンバインが使われるようになって、乾燥機が登場し、状況は変わってきました。乾燥機が出始めた頃は、急に熱を加えるので胴割れ米となり、評判が悪くて稲架木は必要とされていましたが、その後段々と稲架木はなくなっていき、第二回目の耕地整理の後、舟が使用できなくなると同時に見られなくなりました。


(「稲架木が並ぶ潟端の風景」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.13-4」に掲載されています。)

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Ⅲ.暮らしを支えた道
2010 / 02 / 09 ( Tue ) 11:14:58
今回は「道」の話です。まとめにくいテーマで、話し合いと確認作業を何度もくりかえしてつくりました。これまでの話で田んぼと川の様子がわかってきましたが、舟が行き来する川の道だけでなく陸の道も重要だったはずです。道は地図に示されていますが、ぼんやりとしか想像できません。道は暮らしの生命線、道につながる話をまとめることで、当時の状況がより見えてくると思いました。この道の話は自分が想像していなかった内容が多かったので、聞き取りできて良かったと思いました。


第3話 潟端の暮らしを支えた道 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と暮らしについて聞き書きしています。

「越路の野山ひた走る 鉄路分れて能登に入る 岐に近きこの里に 建り我らが学舎は・・。」、この詩は中條小学校の校歌の一節です。潟端のある中條村には、山麓を鉄道が走り、北陸本線と七尾線の分岐駅(津幡駅)があります。そして駅から250mほど西に下った北国街道沿いに小学校がありました。

当時、荷物の輸送には鉄道の貨物列車が主体で、その荷物を扱う会社がどの駅にもありました。津幡駅ではトラック一台ですべての集荷・配達業務が行われていました。トラックは駅から街道を通って、各地へ走りました。
街道は、トラック、バス、オート三輪のほか、荷車や馬車、自転車も行き来しました。自動車は1時間に2~3台ほどしか通らず、エンジン音が騒がしく響くので、1kmほど離れた田んぼにいてもわかりました。また、高い建造物がなかったので、山裾を走る列車も田んぼからよく見えました。いつも11時30分頃になると金沢方面から、50車両ほど数えられる長い貨物列車が、黒煙をあげる機関車に引かれて、津幡駅に向かいました。これを見て、農家の女たちは昼飯の用意に家路に急いだものでした。

北国街道(南中條の部落の南端)から潟端の部落の中央までの道は、車が通れました。路肩の両側が石垣で積まれた巾2間(約3m60cm)の立派な砂利道でした。この道は、大正2年(1913年)に、加賀神社(もとは諏訪神社)が県社加賀神社になったときに、神社が数10m道側に新築され、神社までの細道が拡げられてできたそうです。通称「表道」と呼ばれ、毎年6月と10月の祭礼日には子供御輿や獅子舞がでて賑わいます。加賀神社より西は、細い砂利道でしたが、戦後に中条校下で消防自動車が購入されたときに、部落の奧まで車が入れるようにと道幅が拡げられました。
また、この道の部落東端から街道に出るまでは、周りが田んぼで、戦時中にできた工場が一軒あるだけでしたが、道沿いに河原市用水の分水流がありました。生きものが豊富で、小学校の帰りに道草をする大事な場所でした。川底が砂質で歩きやすく、水も綺麗でした。水藻が所々に生え、暖かくなると川魚がたくさん泳いでいるのが見えました。春先にハリゴ(イトヨ)という針の棘を持った銀色の川魚をつかまえた子もいました。ウグイ、フナ、モロコ、ドジョウ、ゴリ(ヨシノボリ?)、グズ(ドンコ?)、ナマズの子、6月以降は川魚はなんでもいました。そのほかシジミ貝、サワガニ、泥蟹(モクズガニ)、エビ類、蛙、トンボやホタルの幼虫、ゲンゴロウ、ミズスマシなど。川は左岸側は急傾斜の土手でしたが、道側(右岸側)は石垣の護岸で、石垣の上の方には時々ヘビもいました。ヘビをつかまえて、女の子にいたずらする腕白大将もいたようです。

部落の西側はもっぱら田んぼで、潟まで1kmほどあります。部落の西端から、南には七ツ屋につながる巾1~1.5mの道が、反対の北側には三昧川の川端に川尻につながる道がありました。いずれもその部落に行くときの近道で、日中の明るい時に通りました。泥が踏み固まった道で、裸足で走っても安全でした。
太田川と荒川の川端は、潟へ出るときの道でした。農作業の時にもよく人が通るので、草が生えず、常に歩きやすい状態でした。田んぼの間の泥積みの畦も歩くことがありました。細長い田んぼや、まるい田んぼなどいろいろで、畦に縁取られ、複雑な模様をつくっていました。

学校や町に出るときは下駄や草履、長靴を履いていましたが、田んぼ道は裸足がふつうでした。農作業のときなど重たい物を運ぶときは、舟が役立ちましたが、川が通じていない場所では「もっこ」を使いました。網状に編んだ縄の四隅に吊り綱を2本付けたものを、頑丈なもっこ棒に通し、前後2人で担いで運ぶものです。子供と大人で力の差があっても、つり下げる位置を変えることで上手く運ぶことができ、細道での運搬に適した有り難い道具でした。田植えの頃は、天秤棒で苗代田から苗を運びました。200束ほどの苗を詰めた苗籠を、天秤棒の両端に吊して肩に担ぎ、しなる天秤棒に歩調をあわせながら、1kmくらいは休むことなく歩くものでした。内灘の人が舟で渡ってきて、イワシなど新鮮な魚を天秤棒で担いで、荒川の岸辺から部落の方まで売りに来てくれることもありました。また、自転車は最高の機動力でした。お医者さんは、歩けない病人の家まで、自転車で往診に来てくださいました。出産の時も、町から産婆さんが三輪車で来ていました。救急車や消防車がなかった頃は、歩けない病人は荷車にのって、人力で運ばれていました。

田んぼ道を行き来するのは人だけでなく、牛や馬もいました。牛馬がかろうじて歩ける道幅なので、路肩がしばしば崩れました。馬は泥にはまると、あばれて脚を折ってしまうので注意が必要でした。路肩が崩れたときには修繕し、ハサ木を抜いたあとの穴には藁を詰め込むなどして、歩きやすい道をつくっていました。部落の東側に馬渡とよばれる場所がありましたが、そこは川の底質が砂地で固く、馬の蹄が沈みませんでした。川を渡らせたり、牛や馬の汚れを荒洗いする都合の良いところでした。牛馬は農耕用に使われましたが、その歴史は浅いようです。潟端では農期になると山から共同で借りてきましたが、いろいろと面倒がかかることもあり、とくに馬を借りるグループは少数でした。農業機械が普及するとともに牛馬の姿は見られなくなりました。
道はすべて砂利や泥土で、崩れやすいものでしたが、壊れた状態で放置されることはありませんでした。歪んでいたり、凸凹した場所を、巧みに整える人もいました。

昭和22年からの農地改革を経て、潟端では昭和27~30年頃と、昭和41年(1966年)からの大きく2回に渡って耕地整理がおこなわれました。部落の中央を流れる前川には、舟が置かれていましたが、2回目の耕地整理のときに暗渠化され、道は拡幅してアスファルト道路ができました。舟は使われなくなり、車の時代へと変わりはじめました。
昭和28年12月に免許を取得した高橋喜久雄さんは、部落ではじめて貨物自動車マツダオート三輪を購入されて、薪や炭、材木、米を運ぶなど、雑用を請け負う仕事を始めました。小回りが利いて物を容易に運べるオート三輪は人気がありました。それは画期的な出来事で、時代が大きく変わることを、その頃強く感じていました。

(「潟端の暮らしを支えた道」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.13-3」に掲載されています。)

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◆稲を運ぶ舟図
2010 / 01 / 28 ( Thu ) 09:58:01
潟端で使われていた舟は、稲運搬用に適した舟でしたので長さがありました。大きさは物によって多少違いがあったようですが、4間(8m)ほどだったそうです。保管されている舟の実寸を測りましたが、それは4間3尺(8.2m)ほど、幅は中央の太いところで5尺(1.5m)ほどでした。
材質はクサマキとのこと。クサマキは地方名で?でしたが、ヒノキアスナロ(アテ)のことのようです。なかには杉材でつくられた舟もあったそうですが、スギはすぐに腐るので好まれなかったとか。
潟端の舟は、川尻と八田の舟大工さんがつくられていたそうです。

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Ⅱ.暮らしとともにあった舟
2010 / 01 / 27 ( Wed ) 19:14:54
2話目は舟についてまとめました。当時は必需品であったけれど、現在の暮らしにはない舟。坂野さんにむかしの話を聞いていると、舟は当時の暮らしの基本といってもいいほど、いろんな話の中で出てきます。舟がどのように使われていたか、舟の通る川がどのように存在したか、舟が暮らしに欠かせないというのは具体的にどういうことなのだろう、、、、暮らしとともにあった舟を知ることで、ひとむかしまえの潟端のイメージがひろがります。また、海で使われた舟、潟で使われた舟、川や水路を行き来した舟、それぞれに適した形の舟があるという話からは、河北潟の潟縁の暮らしといっても地域によって様々だったということが感じられます。


第2話 潟端の暮らしとともにあった舟 ・・・・・・・☆

河北潟の東側に位置する集落、「潟端」で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに、水郷の景観がひろがっていた1950年代頃までの潟端の自然と人の暮らしについて聞き書きしています。

舟は、水郷潟端の暮らしとともにありました。秋の収穫期は最もよく使われ、何艘もの舟が行き来しました。稲を干す場所をつくるのにも、収穫した稲束を家まで運ぶときにも舟が必要となります。川端に置いている数十本の稲架木を、舟で運んで組み立てる作業は、一週間ほどかかる大仕事でした。春先には田んぼを客土するために、川の泥を舟に入れて運びました。また、夏の日照り時に田んぼに水を入れる水車(踏車)を運んだり、川端の畑で収穫した野菜をのせて運ぶこともありました。魚を捕りに舟を出したり、物々交換に内灘まで行くのも舟でした。舟は、いまの車や一輪車のような役割を果たしていました。
舟道である川は大切にされ、毎年5月からお盆くらいまでに2~3回、川の藻や泥をとりあげました。お盆を過ぎてからも1回おこないましたが、これは稲刈りのときの舟の運航を妨げないようにするためでした。

舟は幼い頃から乗る練習をするので、子どもらはみんな使いこなしていました。舟を漕ぐのにも技がいるもので、下手に漕ぐと、舟と舟があたったり、長い棹があたって音がします。車の少ない静かな時代で、舟をたたいて遠くにいる人に合図することもありましたから、下手に漕ぐと注目を浴びることになりました。そのため静かに舟を漕げるよう、皆よく特訓していました。夜舟を漕ぐ音は、とくに響き渡り、音をさせると家の中にまで聞こえました。夜に舟が出ると、その音で誰がでていったか大体見当がつくほどでした。

潟端では、八田や内灘のような本格的な漁はほとんどおこなわれず、生活の糧は米づくりにありました。そのため潟端の舟は、稲を運ぶための大きな舟でした。漁をするための八田の舟は棹で漕いでも、スーッと前へ進みますが、潟端の舟は歩く速度より遅いくらいで、ゆっくりと進みます。潟端の舟は総長4間3尺ほど(約8m)でしたが、八田の漁舟は1丈9尺8寸ほど(約6m)と潟端の舟より小さく、海に出るタイプの内灘の舟は最も短くて幅がありました。舟の長さや縁の高さ、反り具合は用途に合わせてできているもので、潟端の舟で日本海に出たら忽ち沈没してしまいます。また稲を運ぶ舟でも、大浦や木越の舟は潟端とよく似ていましたが、川尻の舟はより長く、たくさんの稲を積むことができました。川尻には津幡川など深くて大きな川があり、大きい舟の運航が可能でした。河北潟の舟といっても、地域の条件に適した舟がそれぞれ存在していました。
下の絵は潟端の舟と、舟を漕ぐ道具の棹と櫓、櫂です。むかしから「櫂は三年、櫓は三月」といわれ、それぐらい日数を持たないと使いこなせないものでした。櫓と櫂は樫の木でできているので非常に重たく、潟で落としたらすぐに拾い上げなければ取れなくなりました。櫓は櫓杭に乗せて使うことができますが、櫂は舟の端の櫂穴に縄で結んで漕ぐので、操るのが難しく、体力もいりました。棹は破竹棹で軽いですが、これも使いこなすのに三月くらいかかりました。破竹棹のハチクは、山へ行って良いハチクを自分で選び、地主から買い取って家へ持ち帰りました。3~4kmも歩いて持ち帰るので、持ち運べる分量の4~5本を買いました。ハチクは細くて長いので棹に適し、重宝しました。櫓や櫂は、水深1m以上の深いところに出たときに使うもので、通常は棹で舟を動かします。棹は竹が割れると、水が入って使えなくなるので、舟を止めたときは小まめに日陰に置くなどして、大切に使いました。また、内灘の人が使う海に出るタイプの舟には舵がつけてありました。ただ、潟端の舟でも、潟を横切って内灘まで行くようなときには、帆柱を立てて帆をあげることがあり、そのときは櫓を舵のかわりに使いました。

稲を運ぶ舟で漁をおこなうことは難しいので、本格的に漁をする人は八田に行き、使い古された中古品の舟を買っていました。そのため漁をする家には、稲を運ぶ舟と漁をする舟の2つのタイプがありました。昭和23年の潟端の部落92軒には、80隻の舟がありましたが、八田の舟を持っている家は4,5軒でした。漁用の舟は多少ひび割れても大丈夫ですが、潟端の舟は乾いた稲を運ぶので、ひびが入らないよう注意しました。雨風をしのげる舟小屋は地主のような人しか持つことができず、潟端の部落には4軒くらいしかありませんでした。たいていの舟は家の前の川に横付けして置かれ、杭に縄でつないでいました。川に置けない舟は、空き地に置かれました。舟には薦(藁で編んだもの)をかけて、日除けしていました。

(「潟端の暮らしとともにあった舟」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.13-2」に掲載されています。)
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Ⅰ.水郷、潟端を流れる川とフゴ
2010 / 01 / 18 ( Mon ) 23:04:25
2003年から記録作業をはじめましたが、一時中断したこともあって、2007年にようやく第1話としてまとめることができました。とても時間がかかりました。
第1話ではまず、潟端を知らない人、当時の様子を想像できない人でも、潟端の環境の様子がイメージできるような話にしたいと思いました。お話をうかがっていく中、興味深いことがたくさんありました。1つは潟端が江戸時代に生まれた新しい村であること。これは津幡町史や中条小史、またほかの町史にも潟端新村誕生についての説明があります。2つめは潟端の地域が、河北潟の縁を開墾してできたこと。開墾前に存在したフゴ(不湖:沼地)の名前が田んぼの名前として残っていました。たとえば“太田フゴの田んぼ”など。フゴの田んぼは泥深くて農作業が大変だったという話は、そこで田んぼをつくっていた人をはじめ地元の人にしかわからないことです。フゴは河北潟の周りにいくつも存在しますが(文献に記録あり)、フゴができるまでの歴史や立地条件、地質などによって環境は異なり、田んぼといっても形成過程の違いによって状態が違っていたということがわかりました。むかしの多様性を考えるときにこういう点が大事なのだろうと感じます。3つめは、川や田んぼに細かく名前がつけられていたことです。これは調べているうちに文献が見つかったのですが、坂野さんの記憶力に驚嘆しました。


第1話 水郷、潟端を流れる川とフゴ ・・・・・・・☆

河北潟の東に「潟端(かたばた)」という集落があります。河北潟に干拓地ができ、周辺の排水改良事業がおこなわれる以前の1950年代頃まで、河北潟とその周りは豊かな水郷地帯でした。つい半世紀前のことですが、その頃の人の暮らしと風景は、現在とは全く異なったものです。潟端で暮らしてきた昭和4年生まれの坂野 巌さんに様々な話をうかがっています。水郷時代の潟端の暮らしと自然の様子についてお伝えします。

潟端について
潟端は、もともとは浅田、北中條、南中條、太田、潟端の5つの部落からなる旧中條村(ちゅうじょうむら)にありました。この5つの部落の中で潟端以外は、丘陵地の裾野の少し高い位置にあることから、半乾田や畑がおもにつくられていました。潟端は河北潟にもっとも近い低地で、部落の周り一帯が半湿田と湿田でした。泥地で裏作ができないことから、潟端の人たちは米づくりに専念していました。
米づくりに適した立地の潟端は、歴史的には新しくできた部落です。延宝元年(1673年)の河北潟縁開発によりできた新村で、潟端新村と呼ばれていました。加賀の5代藩主前田綱紀公が潟端に鷹狩りに来たときに、この河北潟に近い沼地を見て、ここを開墾して一村をつくろうと計画したのがはじまりといわれています。

田んぼと川
家々と潟と田んぼをつなぐように、川(水路)がいくつも流れていました。津幡川から水を引いている川尻用水路は、最も高い位置にあり、山側の高台から潟に向かっては、排水のための川が7本流れていました。太田川と中條川は、排水路として利用されるとともに、その水がポンプでくみ上げられ、春から夏の間の用水としても利用されていました。
二百十日(9月1日)を迎えてから、稲の刈り取りが始まり、川の両側に稲架場がつくられました。ハザ干しした稲は、各家にある取入舟に積まれ、部落の真ん中を流れる「前川」を通って家の前まで運ばれました。稲を積み込んだ荷舟が午後から夕方まで行き来し、水郷ならではの豊かな風景がひろがっていました。
川(水路)や田んぼにはすべて名前があり、細かい名前が生活の中で役立ちました。誰かが怪我をしたときや、魚がどこで捕れたかなど、すぐに場所を伝達することができるのです。終戦後の土地改良事業で水田がいまの形に整備されたときに、多くは使われなくなり、水路の名称は番号のみが残されました。昭和5年の地図を参考にして、坂野さんの記憶に残る28本の川の名前を図に記しました。川の名前は村ごとに異なり、たとえば中條川(ちゅうじょうかわ)は、隣の井上村では「十二号の川」と呼ばれるなど、村の境界を流れる川には2つの名前がありました。

フゴ
部落の北側と南側にはフゴ(ふだんはやや乾いた湿地で、大雨が降って増水したときに小さな湖沼になるところ。)と呼ばれる場所がありました。フゴにある田んぼは冠水することが多く、泥深いところでは人が入ると30センチくらい沈むため、農作業の労力が2倍半ほどかかりました。フゴといっても場所によって土質が異なっていて、一番北側にある「太郎フゴ」は粘土質で泥深く、少し乾くと亀裂が入り、雨が降るとつるつるに滑りやすくて危険でした。真ん中の「中條フゴ」は砂混じりで、それほど泥深くなく、膝の半分程度が沈むほどでした。南側の「太田フゴ」は腐葉土の堆積した泥で、ここも30センチくらいの深さまで沈みました。フゴの場所は浅い鉢状に下がっており、雨が降るとすぐ水浸しになります。田んぼに一週間以上も水が溜まってしまうと、稲が腐るところもありました。フゴでの米づくりは苦労が絶えないものでしたが、日照りのつづいた年などには、フゴの田んぼが大豊作となりました。(聞き取り・文 川原奈苗)

(「水郷、潟端を流れる川とフゴ」は、NPO法人河北潟湖沼研究所の発行する通信「かほくがたvol.13-1 2007年」に掲載されています。)


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はじめに
2010 / 01 / 09 ( Sat ) 21:25:55
河北潟(かほくがた)は石川県能登半島のつけねにある海跡湖です。昭和の中頃まで北陸で一番の大きさを誇っていました。干拓によって湖の面積はおよそ3分の1に小さくなりましたが、それでも県内で一番広い湖となっています。ヨシやヒメガマがひろがる美しい湖岸風景はとても貴重に思えます。7年ほど前から、この河北潟の一昔前のすがたについて、当時のことをよくしっている地元の方に教えていただくようになりました。
その時代を知る地元の方はみな、「むかしは良かった!」といったことを口にします。その中身は様々で、どう良かったかというのもそれぞれですが、現代に消えてなくなったものを取り戻したいと、そんな強い気持ちが伝わってきます。2004年に河北潟自然再生協議会により開催された「干拓前の河北潟を語るつどい」でも色んな話をお聞きすることができました。むかしの河北潟、つまりは自分たちが育ってきたの郷土の自然に思いを抱いている人がたくさんいることがすばらしいと思います。いまそうしたなか感じることは、当時の良さを知っている人がいなくなったら、それが戻ってくる可能性もなくなってしまうのだろうと。
いろいろうやむやに考えていたところ、機会あって河北潟の近くで生まれ育った坂野巌さんと、当時のことを記録に残していこうという話になりました。自然と暮らしの結びつきに焦点をあてた内容を書き残したいと希望したところ、坂野さんは快く話に乗ってくださいました。坂野さんは今年で81歳を迎えたのですが、ご高齢であるにもかかわらず、まるで昨日あった出来事のように、当時のことを細かく話されるので、最初はとても驚きました。暮らしの中で色々なことを考え、振り返り、試行錯誤する毎日を送ってきたからこそ、記憶が鮮明に残されているのだろうと感じています。また、私は話をきいてもすぐにのみ込めないことが多いのですが、懇切丁寧に説明してくださり、漁や農作業に使った道具、水草や動物の形などを、絵で書き表したり、実物を持ち出して説明されるので、イメージをひろげることができます。そのようにしてお聞きしたことを文章にしていきますが、どうしても勘違いして書いているところがあります。その見直し作業を繰り返すことで、だんだんと話が深まっていきます。
聞き書きは楽しいですが、地域の歴史にかかわる文章を書き残すことの重大さを考えると、責任を感じます。最初の頃はとても不安で、書きまとめる時間もずいぶんかかりました。坂野さんも間違ったことを残してはいけないと何度も言われてきましたが、それでも2003年頃からスタートを切り、いま現在つづけることができています。その内容をこれからここに少しずつ載せていきたいと思います。





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